西漢時代53 文帝(十六) 梁王劉武 前169年(1)

今回は西漢文帝前十一年です。二回に分けます。
 
西漢文帝前十一年
壬申 前169
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月、文帝が代に行幸しました。
春正月、文帝が代から還りました。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、梁王(懐王。文帝の子)が死にました。劉揖には子がいません。
 
賈誼が上疏(上書)しました「もし陛下が制度を定めなかったら、今の形勢からすると、一伝か再伝してから(一代か二代後に)諸侯はますます勝手に振る舞って(朝廷の)制を受けなくなり(猶且人恣而不制)、豪植(自分の勢力を拡大すること)して大いに強くなるので、漢法(朝廷の法度)が行えなくなるでしょう。陛下が藩扞(藩屏)とし、皇太子が頼りにできる者は、ただ淮陽と代の二国しかありません(淮陽王劉武と代王劉参は文帝の子で太子・劉啓の弟に当たります)。しかし代は北が匈奴と接しており、強敵を隣国としているので、自国を保つだけで精一杯です。また、淮陽を大諸侯と較べたら、顔についた小さな黒子のようなものなので、大国の餌になるには充分ですが、禁禦(防御)する力はありません。今は制(権勢)が陛下にあるのに、制国(封国。国を定めること)しながら自分の子は餌にしかなれないとは、どうして工(巧。善計)と言えるでしょう。臣の愚計によるなら、淮南の地を挙げて淮陽(劉武)を拡大し、梁王(今回死んだ劉揖)のために後(継承者)を立て、淮陽北辺の二、三の列城と東郡を加えて梁も拡大します。それができないなら、代王を遷して睢陽を都にさせます(『資治通鑑』胡三省注によると、睢陽は梁国に属すので、代王を梁王に遷すという意味になります)。梁の地は新(『資治通鑑』胡三省注によると、汝南郡に属します)から始まって北は河(黄河)に接し、淮陽は陳を包括して南は江に接します。これなら大諸侯で異心がある者も破膽して(肝を潰して)謀反を企めなくなります。梁は斉趙を防ぐことができ、淮陽は呉楚を制御するに足りるので、陛下は枕を高くし、ついに山東の憂をなくすことができます。これは二世(文帝と太子)の利となります。今の世が恬然(安泰)なのは、諸侯が皆幼いからです。数歳の後には、陛下は(危機を)見ることになるでしょう。秦は日夜苦心労力して六国の禍を除きました。今、陛下は天下を力制し(権力をもって制し)、頤指(あごを使って人に指示すること)も意のままにできるのに、高く手をこまねいて(何もせず)六国の禍を造っています。これは智とは言い難いことです。とりあえず自分の身は無事でも、乱の元を育てて禍を残し、それを熟視しながら平定することなく、万年崩御の後、老母や弱子に(禍根を)伝えて安寧にさせないようでは、仁と称すことはできません。」
文帝は賈誼の計を一部採用し、梁王の後継者を立てて実子の勢力を拡大することにしました。
淮陽王武を梁王に遷し、北は泰山、西は高陽を境にして大県四十余城を与えます。
 
一年余して賈誼が死にました。三十三歳でした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
城陽喜を淮南王に遷しました。
劉喜は城陽章の子で、斉悼恵王肥の孫に当たります。
淮南王は文帝前六年(前174年)に劉長が廃されてから空位になっていました。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が狄道を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、狄道県は隴西郡の治所です。この地には狄種(狄族の一種)が住んでいたので狄道と命名されました。
 
当時は匈奴がしばしば辺境の憂患となっていたため、太子家令を勤める潁川の鼂錯(または「晁錯」)が兵事について上書しました。
資治通鑑』胡三省注によると、太子家令は詹事(皇后や太子の家事および宮中の宦者を掌る官)に属し、秩は八百石です。
鼂錯は鼂が姓氏で、衛の大夫史鼂の子孫、または王子朝の子孫といわれています。
 
鼂錯はこう言いました「『兵法』には『必勝の将はいるが、必勝の民はいない(有必勝之将,無必勝之民)』とあります。これを観ると、辺境を安んじて功名を立てるのは良将にかかっているので、慎重に選ばなければなりません。
臣は、兵を用いて戦いに臨み、刃(武器)を合わせる時、急(重要)なものが三つあるとも聞いています。一つは地形、二つは卒(兵)の服習(訓練して武芸に精通していること)、三つは鋭利な武器を用いること(器用利)です。『兵法』によると、歩兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋(鋋は短い矛)、剣楯を用いる地にはそれぞれ向き不向きがあるので、相応しくない場所で使ったら十人いても一人にすら敵わないことがあります。士は選練されず、卒は服習せず、起居は不精、動静は不集(「不精」も「不集」も行動が統一していないという意味です)で、利に向かっても及ばず(勝機があっても間に合わず。原文「趨利弗及」)、難を避けても徹底できず(避難不畢)、前が攻撃を開始しても後ろが解体し、金鼓(「金」は「金鉦」で撤退の合図です。「鼓」は前進の合図です)の指示が失われているという状態は、卒を習勒(厳格な訓練)しなかった過失によるものであり、(このような軍は)百人いても十人にすら敵いません。兵(兵器)が整わず、鋭利でなかったら(不完利)、空手と同じです。甲(甲冑)が堅密でなかったら、袒裼(肉袒。上半身を裸にすること)と同じです。弩を遠くに至らすことができなかったら、短兵と同じです。射ても中らなかったら、矢がないのと同じです。中っても刺せなければ、鏃がないのと同じです。これらは兵(兵器)を省みなかった(重視しなかった。検査しなかった)ことによる禍であり、五人いても一人にすら敵いません。だから『兵法』では『器械(武器)が鋭利でなかったら卒を敵に与えることになる。卒を用いることができなかったら、将を敵に与えることになる。将が兵(兵法)を知らなかったら、その主を敵に与えることになる。君が将を選ばなかったら、国を敵に与えることになる』と言うのです。この四者は兵(用兵)の至要(最も重要なこと)です。
臣はこうとも聞いています。『大小の違いによって形(状況)が異なり(小大異形)、強弱の違いによって勢(形勢)が異なり(強弱異勢)、険阻か平易かによって備えが異なる(険易異備)。』卑身して(身を低くして)強国に仕えるのは小国の形です。小国と連合して大国を攻めるのは敵国(勢力が匹敵する国。対等の国)に当たる時の形です(自国と相手の国の勢力が対等なら、他の国と連合して攻撃します)。蛮夷によって蛮夷を攻めるのは中国の形です(中原の兵を労すことなく、蛮夷同士で戦わせるのが中国のやり方です)。今、匈奴の地形も技芸(技術)も中国とは異なります。山阪を上下したり溪澗(山谷)を出入りすることにおいて、中国の馬は匈奴に)及びません。傾仄(傾斜)した険しい道で馬を駆けながら矢を射ることにおいて、中国の騎は匈奴に)及びません。風雨、疲労、飢渴に遭っても困窮しないことにおいて、中国の人は(匈奴)及びません。これらは匈奴の長技(長所)です。しかし平原、易地(平地)において軽車、突騎(精鋭の騎兵)を用いれば、匈奴の衆は容易に攪乱されます。勁弩(強弩)、長戟を用いたら、矢は疏(遠く)を射ち、戟も遠くに及ぶので、匈奴の弓では対抗できません。堅甲を身につけて利刃(鋭利な武器)を手に持ち、長短(長い武器と短い武器)を交えて使い、遊弩(遊撃の射手)が往来し、什伍(五人で伍、十人で什。什伍は編成された隊列の意味)が共に進めば、匈奴の兵は当たることができません。材官(能力がある兵。または歩兵)が騶(良質の矢)を放ち、矢が同じ的(標的)を目指せば、匈奴の革笥(皮製の鎧)も木薦(木の楯)も支えることができません。馬から下りて地上で戦い、剣戟を接近させて去就(進退)が切迫したら、匈奴の足は(漢軍に)及びません。これらは中国の長技です。このように観ると、匈奴の長技は三つですが中国の長技は五つあります。陛下がまた数十万の衆を起こして数万の匈奴を誅したら、衆寡の状況から計算して、一人で十人を撃つ戦術になります。
とはいえ、兵(兵器)は凶器であり、戦は危事であります。よって大が小になり、強が弱になるのは、俛仰(屈伸。または頭を上下させること)の間(わずかな時間)に発生します。人の死によって勝を争い、その結果、失敗して振るわなくなったら、後悔しても間に合いません。帝王の道とは万全から出るものです。今、降胡(投降した匈奴)、義渠、蛮夷の属で誼(義)に帰した者は衆数千に及びますが、彼等の飲食も長技も匈奴と同じです。彼等に堅甲、絮衣(綿の服)、勁弓、利矢(鋭利な矢)を下賜し、辺郡の良騎を増やしてから、彼等の習俗を理解して彼等の心を集めることができる明将に命じて、陛下の明約をもって彼等を統率させます。険阻があったら彼等が当たり、平地で道が通じていたら漢人の)軽車や材官(ここでは恐らく歩兵の意味)が制し、両軍が互いに表裏となってそれぞれの長技を使い、更に横から衆(大軍)をもって(少ない敵を)攻撃すれば、万全の戦術となります。」
文帝は鼂錯の進言を称賛し、返答として信書を下賜して寵信を示しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代54 文帝(十七) 匈奴対策 前169年(2)