西漢時代54 文帝(十七) 匈奴対策 前169年(2)

今回は西漢文帝前十一年の続きです。
 
[(続き)] 鼂錯がまた上言しました「秦が兵を起こして胡匈奴()を撃ったのは、辺地を守って民を死から救うためではなく、貪戾(貪婪)にして領地を広大にしたかったからだと聞いています。だから功を立てることなく天下が乱れてしまいました。そもそも兵を起こしながら勢(形勢。虚実強弱)を知らなかったら、戦っても人()の禽()となり、駐屯しても士卒の死が積もることになります。胡や貉の人は、その性が耐寒(寒冷に強いこと)で、揚や粤の人は、その性が耐暑(熱暑に強いこと)です。秦の戍卒は辺境の水土に耐えることができなかったので、戍者は辺境で死に、輸者(物資を輸送する者)は道で倒れました。秦民は出征を棄市に赴くのと同じだと考えたので、讁発(罪人を徭役のために徴発すること)『讁戍(罪人を動員して辺境を守ること)』と名づけたのです(秦代は辺境を守ることが犯罪者への刑罰だと考えられました)。秦はまず官吏で讁された者(罪を犯して刑を与えられた者)や贅壻(婿入りした男)、賈人(商人)を動員し、その後、かつて市籍をもっていた者(以前、商人だった者)を対象とし、更に後には大父母(祖父母)や父母がかつて市籍をもっていた者に対象を拡げ、最後は閭の中から左に住む者も徴集しました(閭は里門の意味です。閭左には貧民が住みました。『資治通鑑』胡三省注によると、閭の左に住む者は徭役を免除されていました。本来徭役を免除されていた者まで動員したことを意味します。または、閭右の人を動員する前に秦が滅んでしまったともいいます)。徴発が不順(道理がない)だったので、出征する者は憤怨しました。彼等は万死の害があったのに、銖両の報(わずかな褒賞)も得られず、事に殉じて死んでも、家族は一算(税金。一算は百二十銭)も免除されず、天下の人々が、禍烈が自分に及ぶことをよく理解していました。そのため陳勝が戍(辺境の守備)に赴いて大沢に至った時、天下のために率先して立ち上がり、天下が流水のように呼応したのです。これは秦が威劫(威圧。強制)によって行ったことの弊害です。
胡人の衣食の業(経営。生産)は地に密着したものではありません。よってその形勢は容易に辺境を攪乱し、往来転移して、至ったり去ったりしています。これは胡人の生業であり、中国の人が南(農地)を離れる原因となっています。今、胡人はしばしば塞下で転牧行猟しながら塞を守る卒(漢兵)を窺っており、卒が少なければ侵入しています。もし陛下が救わなかったら、辺民は絶望して敵に降る心をもちます。しかしもし救ったとしても、(動員する兵が)少なければ足りず、多ければ遠県からやっと到着した頃には胡が既に去っています。(兵を辺境に)集めて解散させなかったら、費用が甚大になります。しかし解散させたら胡がまた侵入します。このような年を連ねたら、中国は貧苦して民は不安になります。
今は幸いにも陛下が辺境の事を憂いており、将吏を派遣して卒を発し、塞を治めているので、甚大な恵(恩恵)となっています。しかし遠方の卒(辺境から離れた地から動員された兵)に塞を守らせても一歳(一年)で交代しているので西漢高后五年・前183年参照)、彼等は胡人の能力を理解していません。よって、常に住んでいる者を選んで、家室を造って田を耕させ、辺境の備えとするべきです。(山川等の地形の)便を利用して高城深塹を造り、要害の場所や水陸交通の要地を調べて城邑を建て、千家以上の規模にします。まず室屋を築き、田器(農具)を準備してから、民を募り、(罪人は)罪を免じ、(罪がない者には)爵を与え、一家の賦役を免除します。初めは冬と夏の衣服を与えて食料を提供し、彼等が自給できるようになるまで続けます。塞下の民に対する禄利が厚くなかったら(辺境の民を厚遇しなかったら)、彼等を久しく危難の地に住ませることはできません。胡人が入駆した時、その侵略を止めることができたら(胡人が奪った物を取り返すことができたら。原文「能止其所駆者」)、半分をその者に与えて県官が償います匈奴から取り戻した物の半分を功績がある者に与えることになるので、元の所有者に対しては県官が補償するという意味だと思います。あるいは、取り返した物を元の所有者に返し、半分に相当する褒賞を功績がある者に与えたのかもしれません。原文「県官為贖」)。民がこのようであれば(民に対してこのようにすれば。原文「其民如是」)、邑里が共に救助しあい、胡に赴いて死を避けなくなります。これは上を徳とするからではなく(陛下に感謝しているからではなく)、親戚を守ってその財を利したいからです(経済的な利益を得たいからです)。このような民の功績は、東方の戍卒で地勢に習熟せず心中で胡を畏れている者の万倍にもなります。陛下の時代に民を遷して辺境を充実させ、遠方に屯戍する事をなくせば、塞下の民は父子が互いに守り合い、捕虜になる憂患がなくなり、利は後世に施され、(陛下の)名は聖明と称されます。これは秦が怨民を出征させた方法と遠く離れています。」
文帝はこの進言に従って募民を行い、塞下に遷して辺境を固めました。
 
鼂錯がまた上言しました「幸いにも陛下が募民移住によって塞下を充実させたおかげで、屯戍の事(徭役)がますます省かれ、輸送の費用もますます少なくなりました。これは甚大な恩恵です。下吏が本当に厚恵を称して明法を奉じ(陛下の意思に従って厚い恩恵を民に与え)、移住した老弱の者を存卹(救済)し、その壮士を善遇し、その心を和輯(和睦団結)させて侵刻(侵害)をなくし、先に至った者が安楽な生活を送って故郷を思うことがなくなれば、貧民が互いに羨ましがって辺境への移住を勧めあうようになるでしょう。臣が聞いたところによると、古において民を遷した者は、陰陽の和(調和)を観察し、水泉の味を確かめ、その後、邑を営んで城を建て、里(村)を定めて住宅を割り振り、まず(民のために)室家を築き、器物を置いたので、民が至ったら住む場所があり、使う物がありました。このようであったから民は容易に故郷を去り、新邑に行くことを勧めあったのです。(民のために)巫を置き、疾病を救って祭祀を修め、男女に昏(婚姻)があり、生死を互いに助け合い(年をとったり病になったら助け合い)、墳墓が寄り添い、樹木を植えて六畜(馬、牛、羊、犬、豚、鶏)を育て、室屋が完安(完備して安全なこと)していれば、民はその地に住むことを楽しみ、長居の心をもつようになるのです。
臣はまたこうとも聞いています。古は辺境の県に制度を作って敵に備えました。まず五家を伍として伍に長(伍長)を置き、十長を一里として里に假士を置き、四里を一連として連に假五百(「假五百」で帥の名)を置き、十連を一邑として邑に假候を置きました(「假」は「大」の意味とする説と、常設ではなく「代理」の意味とする説があります)。これらの者は全てその邑の賢材で、(民や邑を)保護する能力があり、地形に習熟して民心を理解した者が選ばれました。安居している時は民に射法を習わせ、外に出たら民に応敵(敵に対する方法)を教えます。このようであるので卒伍(編成)は内において成立し、軍政は外において定まりました。服習(訓練)が成ったら移住させず(それぞれの業を守らせ)、幼い者は共に遊び、長じたら事を共にします。夜戦では声を聞いただけで互いを知るので助け合うことができます。昼戦では目が合っただけで互いに識別できます。驩愛(歓愛)の心によって共に死ぬこともできます。このような基礎の上で、厚賞によって奨励し、重罰によって威を与えれば、死に向かっても踵を返すことがありません。移住した民が雄壮でなく能力もなかったら、ただ衣糧を費やすだけで用いることができません。また、たとえ材力(才力)があったとしても、良吏を得なかったら功が無いのと同じです。
陛下が匈奴との関係を絶って和親をしなくなったら、臣が見るに、冬になったら匈奴が)南下してきます。しかし辺境が一度大いに治まったら、(南下して来た匈奴に)終身の傷を負わせることができます。威を立てたいのなら、折膠(秋の頃。膠が折れやすくなる季節)に始めるべきです匈奴が兵を動かし始める秋に打ち破るべきです)匈奴が)来てから困窮させられなかったら、(匈奴)(志)を得て去らせることになるので、今後、容易に服従させられなくなります。」
 
鼂錯の為人は陗直刻深(剛直で厳峻苛酷)でしたが、弁才によって太子劉啓の寵信を得ました。太子家では「智囊(知恵袋)」と称されます。
 
 
 
次回に続きます。