西漢時代55 文帝(十八) 重農政策 前168年

今回は西漢文帝前十二年です。
 
西漢文帝前十二年
癸酉 前168
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月、黄河が酸棗(陳留郡)で決壊しました。東の金隄を破壊して被害が東郡に及びます。
朝廷は士卒を大動員して河を塞ぎました。
 
[] 『漢書・文帝紀』からです。
春正月、文帝が諸侯王の娘に邑各二千戸を下賜しました
 
[] 『漢書・文帝紀』からです。
二月、孝恵皇帝の後宮にいた美人を出して嫁がせました。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、関を廃止しました。伝(信。通行証)も必要なくなります。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
鼂錯が文帝に言いました「聖王が上にいて民が凍飢に苦しまないのは、(聖王が)農耕して(民を)食べさせることができたからではなく、布を織って衣服を与えることができたからでもありません。(民のために)資財の道(財を作る道)を開いたからです。だから堯は九年の水害があり、湯は七年の旱害があったのに、国には捐瘠の者(棄てられた瘦病の者)がなく、畜積が豊富で事前に充分な備えがありました。今は海内が一つになって土地も人民の衆(数)も湯()に劣らず、しかも水旱の天災も数年にわたって起きていません。それなのに畜積が(堯の時代に)及ばないのはなぜでしょうか?地は利が残されており(地の利を使い尽くしておらず)、民に余力があり、生穀の土地が開墾され尽くしているわけではなく、山沢の利も全て出されているわけではなく、游食の民(食糧を浪費している遊民)もまだ全てが農に帰しているわけではないからです。
厳寒の時は衣服を求め、軽暖を待つことはありません(寒くて服が必要な時は、軽さや暖かさを求めることはありません)。飢餓の時は食糧を求め、甘旨を待つことはありません(飢えて食糧が必要な時は、美味を求めることはありません)。飢寒が身に至ったら、廉恥を顧みないものです。人の情とは、一日に二回食事をとらなければ飢えます。一年中衣服を作らなければ寒くなります。腹が飢えても食糧を得られず、膚()が寒くなっても衣服を得られなかったら、慈父でも自分の子を保てません。どうして君主が民を保てるでしょう。明主はこの道理を知っていたので、民を農桑に務めさせ、賦斂(賦税)を薄くし、畜積を拡大し、こうすることで倉廩を充たして水旱に備えたから、民を得て有すことができたのです。
民というのは、上にいる者がどう牧す(治める)かで決まります。民が利に向かう様子は水が下に流れるのと同じで、四方を選ぶことはありません(水が東西南北の方向を選ぶことなく下に流れるように、民は利を追い求めるものです)。珠、玉、金、銀は飢えても食べられず、寒くても着られません。それなのに人々が貴重な物とするのは、上がそれらを用いているからです。これらの物は軽微(軽くて小さいこと)でしまいやすく、手に握れば海内を周遊できて飢寒の憂患もありません。これらは臣下を軽率に主に背かせ、民を容易に故郷から離れさせ、盗賊を勧誘し、亡逃者に軽資(携帯しやすい資本)を得させます。粟、米、布、帛は地から生まれ、長い時をかけて成長し、人々が力を集めなければ作れず、一日で成就するものでもありません。しかも数石の重さがあるので中人(強弱が中間の人。普通の人)でも運べず、姦邪の者が利益とみなすこともありません。しかし一日これを得なかったら飢寒が至ります。だから明君は五穀を尊んで金玉を賎しめました(軽視しました)
今、五口(五人)の農夫の家があったとしたら、服役の者(徭役に従事する者)は二人を下らず、耕作できる地は百(百畆)に過ぎず、百の収入は百石に過ぎません。春耕(春の耕作)、夏耘(夏の草刈り)、秋穫(秋の収穫)、冬藏(冬の貯蔵)(四季の農事を行い)、薪樵(柴や薪)を刈り、官府を修築し、繇役に服していたら、春は風塵を避けられず、夏は暑熱を避けられず、秋は陰雨を避けられず、冬は寒凍を避けられず、四時(四季)の間に休息する日がありません。更に個人的な送迎往来があり、死者を弔問して疾(病)を慰問し、養孤(老人を養うこと)して幼い者を育てるのも、その中(百石の収入)からまかなわなければなりません。民はこのように勤苦している上に水旱の災を蒙り、急政暴賦(政府による苛酷な賦税の取り立て)があり、不規則に賦斂(税)が徴収され、朝の令が暮には改められています朝令暮改(生活のために)資財がある者は半賈(半値)で物を売り、ない者は二倍の利息で金を借り、そのために田宅を売ったり妻子を売って債務を償っています。逆に商賈(商人)を見ると、大きい者は財貨をためて利息を二倍にし(積貯倍息)、小さい者は市に坐って物を売り、奇贏(利益)を操って毎日都市を周遊しており、上(陛下)が急いで必要な物は必ず二倍の価格にして売っています。だから(商賈の)男は耕耘(農耕)をせず、女は蚕織(織物)をしないのに、衣服は必ず文采(華美な物)を身につけ、食事は必ず粱肉(美食。「粱」は良質な穀物の意味)を口にし、農夫としての労苦がないのに仟伯(千銭、百銭)の得(利益。財産)を有しています。彼等は厚い富によって王侯と交わり、勢力は吏(官吏)を越え、利を使って争っています(以利相傾)。彼等が千里を游敖(漫遊)したら、官員が相次いで訪れ(冠蓋相望)、堅車に乗り、肥馬を鞭打ち、絲の靴を履き、縞(純白の絹)を着ています。これが商人が農人(農民)を兼併し、農人が流亡する原因です。
今の急務は、民を農業に務めさせること以外にはありません。民を農業に務めさせるには、粟(食糧)を貴くしなければなりません。粟を貴くさせる道は、民にとって粟を賞罰とすることにあります(民にとって食糧が賞罰の基準になれば、食糧の価値が高くなり、民が農業に励むようになります)。天下に募って粟を県官に納めさせ、(食糧を納める代わりに)拝爵と除罪(免罪)を得させます。こうすれば、富人は爵を有し、(富人が食糧を買うので)農民は銭を有し、粟が分散します。粟を納めて爵を受ける者は、皆、余りがある者です。余りがある者から取って上(国)の需要に供給すれば、貧民の賦(税)を削ることができます(国の収入が増えるので貧民に対する税を減らすことができます)。これが『余りを減らして不足を補う(損有餘,補不足)』というものであり、この令が出されたら民の利となります。今の令では、民が車騎の馬一頭を出したら(一家の中で)三人が復卒(兵役を免除すること)されることになっています。車騎は天下の武備(重要な備え)なので復卒されるのです。しかし神農の教えにこういうものがあります『十仞(仞は高さの単位)の石城(堅い城壁)があり、百歩の幅の湯池(沸騰した濠)があり、帯甲武装した兵)が百万いても、粟(食糧)がなければ守ることができない。』これを観ると、粟とは王者の大用(重要な物)であり、政の本務(本分。根本)であります。今は民が粟を納めて爵が五大夫(第九爵)以上に至っても、(兵役を)免除されるのは一人だけです。これは騎馬の功に較べてあまりにも遠すぎます。爵は上(陛下)が専有しており、口から出て無窮です爵位は陛下が自由に与えることができます)。粟は民が植えるもので、地に育って欠乏することがありません。高爵を得て罪を免れるのは、人が強く欲することです。天下の人を使って粟を辺境に納めさせ、代わりに爵を授けて罪を免れさせれば、三歳(三年)を過ぎずに塞下の粟が必ず豊富になります。」
文帝はこの進言に従いました。民に命じて辺境に食糧を納めさせ、量によって高低の異なる爵位を与えます。
資治通鑑』胡三省注によると、粟六百石を納めたら上造になり、その後は徐々に増えて四千石で五大夫、一万二千石で大庶長の爵位が与えられました。
 
鼂錯がまた上奏しました「幸いにも陛下が天下に命じて粟(食糧)を塞下に入れさせ、爵を拝させました。甚大な恵(恩恵)というものです。しかし塞卒(辺境の士卒)の食が不足しているため、天下の粟が大いに分散される(辺境に集まりすぎる)のではないかと秘かに心配しています。そこで、辺境の食糧が五歳(五年)を支えるに足るようになったら、粟を郡県に入れるように命じるべきです(諸郡県で食糧を蓄えて凶災の備えとします)。郡県が一歳以上を支えるに足るようになったら、赦免して農民の租を徴収しないようにします。こうすれば徳沢が万民に加えられ、民はますます農業に勤め、大いに富んで楽しむことができます。」
 
文帝はこの進言にも従い、詔を発しました「道民(導民)の路は本に努めさせることにある。朕は自ら天下を率いて農耕を行い、今で十年になるが、野が開墾されることなく、一年でも不作があったら(歳一不登)、民に飢色が現れている。これは農事に従う者がまだ少なく、吏(官吏)もより一層務めていないからである(励んでいないからである)。わしは詔書をしばしば下し、毎年民に種樹(樹木の栽培)を奨励してきたが、功がまだ興きないのは、吏が我が詔を受けながら勤めず、民への奨励も不明瞭だからである。そもそも我が農民は甚だしく辛苦しているのに、吏は省みようとしない(民に対して関心をもたない)。このようなことでどうして奨励できるだろうか。そこで、農民に今年の租税の半分を下賜することにする(租税の半分を免除する)。」
 
文帝が農民の保護に力を入れたおかげで、朝廷は国庫を潤わすことができました。
 
[] 『漢書・文帝紀』からです。
文帝が詔を発しました「孝悌とは天下の大順である。力田とは生の本である西漢恵帝四年・前191年および少帝元年・前187年参照)。三老とは衆民の師である。廉吏とは民の表(見本)である。朕はこれら二三の大夫の行いを甚だしく嘉する。ところが今、万家の県においても、令(察挙の令)に応じる者がいない。これが人情(実情)に符合するであろうか。吏(官吏)が賢才を挙げる道を整えていないからである。そこで、謁者を派遣して三老と孝の者を労い、一人当たりに帛五匹を下賜する。悌の者と力田は二匹、廉吏で二百石以上の者は、百石ごとに三匹とする百石ごとに三匹増やす)民の便安(便利安寧)ではないことを問うために、戸口の数に基づいて三老・孝悌・力田の常員を置き、それぞれ(詔の)意を率先して民を導かせることにする。」
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代56 文帝(十九) 肉刑廃止 前167年