西漢時代56 文帝(十九) 肉刑廃止 前167年

今回は西漢文帝前十三年です。
 
西漢文帝前十三年
甲戌 前167
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月甲寅(十六日)、文帝が詔を発しました「朕は自ら天下を率いて農耕し(籍田の儀式を指します)、粢盛(宗廟の食事)を供給する。皇后は親桑(自ら養蚕を行う儀式)して祭服を供給する。(籍田親桑の)礼儀(礼制)を制定せよ。」
 
[] 『史記・孝文本紀』と『資治通鑑』からです。
秦の時代から祝官に祕祝(祕祝の官。「祕」は「秘」と同じです)がおり、災祥があったらすぐに過失の責任を皇帝から下の者に移していました。
 
夏、文帝が詔を発しました「天道を聞くに、禍は怨から起こり、福は徳から興るものである。百官の非(過失)は朕の躬(身)が責任を負うべきだ。今、祕祝の官は過失を下に移すことで逆に我が不徳を明らかにしている。朕はこれに賛成しない。除くべきである。」
 
[] 『史記・孝文本紀』と『資治通鑑』からです。
斉の太倉令淳于意が罪を犯しました。
資治通鑑』胡三省注によると、太倉令は斉国の官です。淳于意は淳于が姓氏で、姜姓から生まれました。州公西周時代に淳于氏は州国に封じられた。州公と称されます)の子孫です。
 
淳于意が刑を受けることになったため、文帝は詔を発して逮捕を命じ、長安に護送させて投獄しました。
太倉公(淳于意)には男児がなく、五人の娘がいました。太倉公は家を出ようとした時に逮捕され、娘を罵って言いました「子を生んでも男が生まれなかった。緩急(危急)の時に益がない(役に立たない)。」
すると少女(末の娘)緹縈が傷ついて涙を流し、父に従って長安に入りました。
緹縈が上書しました「妾(私)の父は吏(官吏)となり、斉の国中が皆、その廉平(廉潔公平)を称えていましたが、今、法に坐して(罪を犯して)刑を受けることになりました。妾は死者になったら復生(蘇生)できず、刑者(肉刑を受けて手足を失ったら)になったら再びつなげられないことに心を痛めています。(肉刑を受けたら)たとえ後に過失を改めて自新したいと思っても、その道がありません。妾は自ら官婢に没して父の刑罪を贖い、父が自新できることを願います。」
資治通鑑』胡三省注によると官婢は永巷令の管理下にありました。永巷は宮中の妃嬪が生活する場所です。
 
緹縈の上書が文帝に届けられました。文帝は書を読んで憐れみ悲しみます。
五月、文帝が詔を発しました「有虞氏(舜)の時代は、衣冠の色や模様を変えて(画衣冠)章服(通常の礼服)と異ならせることで(服の色や模様を見たら罪を犯したことが分かるようにして)(辱め)としたが、それだけで民が罪を犯さなくなったという。これはなぜだ。至治(教化が行き届いて天下が治まっていること)だったからである。今、法に肉刑が三つあるが(史記集解』は「黥刑(刺青の刑)と劓刑(鼻を削ぐ刑)で二つ、左右の足を斬る刑で一つ」としています。『索隠』も「断趾(足を切断する刑)、黥、劓」としており、「文帝は肉刑を除いたが宮刑は変えなかった」「淫行は人族の秩序を乱すため、宮刑だけは変えなかった」と解説しています。宮刑は去勢する刑で、最も過酷な肉刑です)、姦(犯罪)が止むことはない。その咎はどこにあるのか。朕の徳が薄く、教えが不明だからではないか。わしはこれを甚だしく慚愧している。このような状況なので、馴導が不純(不善)で愚民(無知な民)が刑に陥っているのである。
『詩(大雅泂酌)』にはこうある『接しやすくて徳がある君子は、民の父母と同じである(愷弟君子,民之父母)。』今、人が過ちを犯した時、教化を施す前に刑を加えており、ある者は行いを善に改めたいと思っているのに、その道がないため実現できない。朕はこれを甚だしく憐れに思う。刑が至って支体(肢体)を断ち、肌膚を刻んだら、終生元に戻ることがない(終身不息)。何と残酷で不徳(楚痛而不徳)なことであろうか。これが民の父母たる者の本意であろうか。肉刑を除いて他の刑に代えるべきである。また、罪人で亡逃(逃亡)しない者に対しては、それぞれ罪の軽重に基き、年(刑期)を満たしたら免じるべきだ(刑を免じて庶人にするべきだ)。これらの法令を定めよ。」
 
丞相張蒼と御史大夫馮敬が律を定めて上奏しました。上奏の内容は『漢書刑法志』を元にします。
「肉刑は姦を禁じるために用いられ、その由来は久しくなります。しかし陛下は明詔を下され、万民が一度過失を犯して刑を被ったら終生元に戻らなくなることと、罪人が行いを善に改めたいと思っても道がないため実現できないことを憐れみました。このような盛徳は、臣等が及ぶことではありません。臣等は謹んで議論し、律を定めることを請います。
(「完」は頭髪を残して鬚やもみあげを剃る刑です。但し、『資治通鑑』は「完」を「髠」に置き換えています。「髠」は髪を剃る刑です)に当たる者は、完を城旦舂にします(城旦は男を対象にした刑で、早朝から城壁を守ったり修築をします。舂は女を対象にした刑で、米を挽く労働です。どちらも刑期は四年です)。黥(刺青の刑)に当たる者で髠鉗(髪を剃って首枷をする刑)は城旦舂にします(原文「当黥者髠鉗為城旦舂」。『資治通鑑』は「当黥髠者鉗為城旦舂」としており、中華書局の『白話資治通鑑』は『黥髠(刺青をして髪を剃る刑)に当たる者は、鉗(首枷)をして城旦舂にする』と訳しています)。劓(鼻を削ぐ刑)に当たる者は笞三百にします。左止(左足)を斬る刑に当たる者は笞五百にします。右止(右足)を斬る刑に当たる者、および人を殺して先に自告(自首)した者、吏(官吏)で賄賂を受けて法を曲げた者(受賕枉法)、県官の財物を守りながら自ら盗んだ者の中で、既に判決が下されたのに再び笞罪(笞刑に相当する罪)を犯した者は全て棄市に処します(右足を斬る刑は死刑に改められ、人を殺して自首した者、収賄した者、県官の財を着服した者も、再び罪を犯したら死刑になりました)
罪人の獄が既に決して、完(または「髠」)が城旦舂に改められた者は、満三歳(年)で鬼薪白粲とします(鬼薪は男を対象にした刑で、祭祀に使う薪を刈ります。白粲は女を対象にした刑で、祭祀に使う米を選別します)。鬼薪白粲が満一歳(年)になったら、隸臣妾にします(隸臣妾は奴隷を意味します。隸臣は男、隷妾は女です)。隸臣妾が満一歳になったら刑を免じて庶人にします。
刑を受けて隸臣妾となった者は、満二歳経ったら司寇にします(司寇は徒刑の一種で、辺境で労役したり外寇を防ぎます。男女とも司寇といいます)。司寇が満一歳になった者と司寇に相当する刑が満二歳になった者(原文「司寇一歳,及作如司寇二歳」。「作如司寇」の部分は意訳しました。『漢書』の注は「他の刑から落として司寇になった者は一年、正司寇(元々司寇の刑に処された者)は二年」と解説しています)は全て免じて庶人にします。
亡逃(逃亡)した者および耐以上の罪がある者(原文「有罪耐以上」。「耐刑」は鬚やもみあげを剃る軽い刑なので、ここでは「耐刑以上」と理解すると意味が通じません。『漢書』の注は「元の罪の他に重ねて罪を犯した者」としています。「既に判決が下されてから、再び耐刑以上の罪を犯した者」という意味かもしれません)は、この令を用いません。この令を作る前に城旦舂の刑を受けた者で、歳(刑期)を満たして禁錮にも処されていない者は、完刑を城旦舂に改めた歳数(刑期)に応じて免じます。臣等は死を冒してこれを請います。」
文帝は制(皇帝の命令)を下して「可」と言いました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
当時、文帝は身を修めて玄默(静清無為)に努めており、将相も古い功臣ばかりで文才に乏しく多くが質朴でした。君臣は秦を滅亡に招いた政治を嫌って誡めとし、寬厚を国政の基本として論議していたため、他人の過失をあげつらうことを恥としました。
このような教化が天下に行き届き、告訐(告発)の俗(気風)が改められます(秦は厳しい刑法を使って天下を治めており、密告告発が頻繁にありました)
官吏は自分の官に安んじ、民は自分の業を楽しみ、畜積は年々増加し、戸口も徐々に増えていきました。風俗は篤厚に向かい、厳格な法は簡素になり、罪の疑いがある者にも民心に則って寛大に対処したため、刑罰が大いに省略されて(一年の)断獄(判決)は四百にまで減少しました。こうして刑錯(刑を行わないこと。「錯」は一方に置くという意味)の気風が現れました。
 
但し、『漢書刑法志』にはこうあります。
「この後(肉刑が廃止されてから)、外に対しては刑を軽くしたという名分ができたが、内情は逆に人が殺されるようになった。右足を斬る刑に当たる者は死刑に処され、左足を斬る刑に当たる者は笞五百、劓刑に当たる者は笞三百になったが、どちらも(笞に打たれて)多くが命を落とした。」
 
[] 『史記・孝文本紀』『資治通鑑』からです。
六月、文帝が詔を発しました「農とは天下の本であり、これよりも重大な任務はない。今、(農民は)勤めて(農業に)従事しているが、租税の賦が存在している。これでは本末(農業と商工業)に区別がない(農民からも商工業者からも税を取っているので、両者の区別がない)。これは勧農の道がまだ備わっていないことを意味している。よって田の租税を免除することにする。また、天下の孤寡(孤児や寡婦にそれぞれ若干数の布・帛・絮(綿)を下賜する。
 
こうして農業を保護するために農民の賦税を完全に免除することになりました。
 
 
 
次回に続きます。