西漢時代60 文帝(二十三) 申屠嘉 前163~162年

今回は西漢文帝後元年と後二年です。
 
西漢文帝後元年
戊寅 前163
 
文帝は即位して十七年目に改元しました。本年を「後元年」、または「後元元年」といいます。
 
史記・孝文本紀』は前十七年(本年)に「玉杯を得て『人主延寿』と刻まれていたため、天子が始めて元年に改元した。天下に大酺を命じた」としていますが、『漢書・文帝紀』『資治通鑑』とも、玉杯を得たのも大酺したのも昨年の事としています。
 
[] 『史記・孝文本紀』『漢書・文帝紀』『資治通鑑』からです。
冬十月、ある人が「新垣平の言は全て詐(虚偽)です」と上書しました。
文帝は新垣平を吏(官吏。獄吏)に渡して審問させ、親戚宗族を誅滅しました(誅夷平)
この後、文帝は改正(正朔。暦を改めること)や服色の改変および鬼神の事を疎かにするようになり、渭陽と長門の五帝は祠官を派遣して季節ごとに致礼(祭祀)するだけで、自らは参加しなくなりました。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、孝恵皇后張氏が死にました。
孝恵皇后は張敖と魯元公主の娘で、呂太后の孫に当たります。呂氏が誅滅されてからは北宮に遷されていました。
 
[] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
文帝が詔を発して言いました「最近、数年にわたって不登(不作)であり、更に水旱、疾疫の災が重なっているので、朕は甚だ憂いているが、愚なうえに不明なので、まだその咎に達していない(なぜ天の咎めを受けているのか理解できていない)。朕の政に失(過失)があり、行いに過(過失)があるということなのか。天道が不順なのか、または地利を得ず、人事の多くが和を失い、鬼神が享(祭祀)を廃されているということなのか。なぜこのような状態に陥っているのだろう。あるいは百官の奉養(俸禄)に浪費があり(俸禄が多すぎ。『資治通鑑』は「或廃(あるいは廃止し)」としていますが、『漢書帝紀』では「或費(あるいは浪費が多い)」となっています。『漢書』が正しいはずです)、あるいは無用の事が多すぎるのか。なぜ民の食が寡乏(欠乏)しているのだろう。田を量っても減っていることはなく、民を計っても増えていないことはなく、人口に則って土地を計算するのなら、古に較べてまだ余りある。しかし食が甚だしく不足しているのは、どこに咎があるからだろうか。百姓で末(工商業)に従事して農業を害す者が多いというのか。酒醪(酒)を造るために浪費している穀物が多いというのか。六畜(馬、牛、羊、犬、豚、鶏)による食の浪費が多いというのか。これら細大(大小)の義(理由。道理)について、わしはまだ中(適切、重要なこと)を得ていないので、丞相、列侯、吏二千石、博士と共に議す必要がある。百姓を助けられることなら自由な考えで深く検討し、隠すことなく発言せよ(率意遠思,無有所隠)。」
 
 
 
西漢文帝後二年
己卯 前162
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏、文帝が雍の棫陽宮に行幸しました。
資治通鑑』胡三省注によると、棫陽宮は秦昭王が建てた宮殿です。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
六月、代王劉参(孝王。文帝の子)が死にました。
劉参は文帝前二年(178)に太原王に封じられ、三年後(文帝前五年175年)に代王に改められて、代と太原を併せて治めていました。
史記梁孝王世家』によると、劉参の子劉登が継ぎました。共王といいます。
 
[] 『史記孝文本紀』漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
匈奴が連年辺境に入り、多数の人民や畜産を殺略しました。雲中と遼東の損失が最も大きく、各郡で万余人が被害に遭いました。
文帝はこれを憂いて匈奴に使者を送り、書を届けます。
単于も当戸匈奴の官名)を送って返礼しました。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴には左右賢王から左右大当戸まで二十四の長がいました。
 
文帝が詔を発して言いました「朕は不明なので、徳を遠くに及ぼすことができず、方外の国(四方の外の国。外国)においては、ある国は寧息できないでいる(辺境を侵略している)。四荒(四方の荒遠の地)の外がその生を安らかにできず、封畿(近畿)の内が勤労して安住できないようなら、二者の咎はどちらも朕の徳が薄くて遠くに達せられないことが原因である。最近、匈奴が連年繰り返して辺境を侵暴しており、多くの吏民を殺しているが、辺臣兵吏(辺境の諸将や官員)も我が内志(内心。平和を望む心)(匈奴)伝えることができず、我が不徳を重ねることになっている。久しく難を切り離すことなく兵を連ねたら、中外の国がどうして自ら安寧になれるだろう。今、朕は朝早くに起きて夜遅くに寝ており(夙興夜寐)、天下のために勤労し、万民のために憂苦し、そのため恐懼して不安になり(『史記』は「怛惕不安」。『漢書』は「惻怛不安」)、一日として心から忘れたことがない。だから使者を派遣して冠蓋相望させ(使者の冠や馬車の屋根が互いに見えること。多数の使者が行き来しているという意味)、轍の跡を道で結ばせて(『史記』は「結軼於道」。『漢書』は「結徹於道」。多数の轍が重なり合うこと)、朕の意を単于に伝えた。今、単于は古の道に還り、社稷の安を計り、万民の利に便宜をもたらし、自ら朕と共に細過(小さな過ち)を棄て、そろって大道に向かい、兄弟の義を結ぶことで、天下の元元の民(善良な民衆)保全させることにした。和親は既に定まり、今年から始められる。」
 
こうして漢と匈奴の和親が回復しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
八月戊戌(中華書局『白話資治通鑑』は「戊戌」を恐らく誤りとしています)、丞相張蒼を罷免しました。
 
文帝は皇后の弟竇広国が賢人で品行も優れているため、相に任命したいと思いましたが、久しく考えてから「恐らく天下はわしが私心によって広国を選んだと思うだろう」と言ってあきらめました。
この頃、高帝の時代の大臣は多くが死んでおり、残った者には丞相に相応しい者がいませんでした。
御史大夫を勤めている梁国の申屠嘉はかつて材官蹶張(強弩を射る歩兵。材官は歩兵。蹶張は足を踏みしめて強弩を射ること)として高帝に従い、関内侯に封じられました。
資治通鑑』胡三省注によると、『荘子』に申徒狄という者がおり、夏王朝時代の賢人でした。一説では、申徒は楚の官号です。申徒と申屠は同音で、上古の申徒氏から申屠氏が生まれたようです。または、申侯(周代の諸侯)の後代に安定屠原に住んだ支子庶子がおり、地名を元に申屠氏を名乗ったともいわれています。
 
庚午(初四日)、申屠嘉を丞相に任命し、故安侯に封じました。
 
申屠嘉の為人は廉直で、家門は私謁(個人的な訪問)を受け入れませんでした。
当時、太中大夫鄧通が文帝の愛幸を受けており、賞賜が鉅万(巨万)に上りました。
文帝は鄧通の家で燕飲(歓宴)したことがあり、その寵幸は及ぶ者がいません。
ある日、申屠嘉が入朝すると、鄧通が文帝の傍におり、礼節をおろそかにしていました。
申屠嘉は奏事を終えてからこう言いました「陛下が群臣を幸愛するのなら、富貴を与えればいいことです。朝廷の礼においては、不粛(不敬)があってはなりません。」
文帝が言いました「君は何も言うな。わしが個人的に誡めよう。」
朝議が終わってから、申屠嘉は府中に帰って坐り、檄(長さ二爵の木書)で鄧通を丞相府に招きました。
しかし鄧通は現れません。
申屠嘉が鄧通を斬首すると宣言したため、鄧通は恐れて入宮し、文帝に訴えました。
文帝はこう言いました「汝は行きさえすればいい。わしが人に命じて汝を呼び戻してやろう。」
鄧通は丞相府に入ると冠を脱ぎ、裸足で頓首して申屠嘉に謝罪しました。
申屠嘉は平然と座ったまま礼を行わず、譴責して言いました「朝廷とは高帝の朝廷である。通(汝)のような小臣が殿上で戯れるとは大不敬だ。(その罪は)斬首に値する。吏よ!すぐに斬首を行え!」
鄧通が頓首して頭から血を流しましたが、それでも申屠嘉は赦そうとしません。
その頃、文帝は丞相が鄧通を懲らしめただろうと見計らって使者に符節を持たせて派遣しました。鄧通を召して丞相に「彼はわしの弄臣(帝王を喜ばせる近臣)だ。君は彼を赦してくれ」と伝えます。
赦された鄧通は文帝の前に来ると泣いて「丞相が臣を殺すところでした」と言いました。
 
これは申屠嘉の剛直な性格と、寵臣でも過ちは咎める文帝の態度を伝える話です。
 
 
 
次回に続きます。