西漢時代62 文帝(二十五) 文帝の死 前157年

今回で西漢文帝の時代が終わります。
 
西漢文帝後七年
甲申 前157
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏六月己亥(初一日)、文帝が未央宮で死にました。
漢書』の注と『資治通鑑』胡三省注によると享年は四十六歳ですが、『史記集解』では四十七歳です。『帝王世紀』も四十七歳としています。
 
文帝は遺詔でこう命じました「朕が聞いたところでは、天下万物が萌生したら、死なない物はない。死とは天地の理であり、万物の自然(通常なこと)なので、特に哀しむことではない。当今の世は、誰もが生を嘉して死を悪とし、厚葬によって破業(破産)を招き、服喪を重視し過ぎて生(身)を傷つけているが、わしはこのような状態を支持しない。それに、朕は不徳だったので、百姓の助けにならなかった。今崩じてからまた服喪を重んじて久しく臨(哀哭)させたら、寒暑の変化に遭遇して人の父子を哀しませ、長老の志(心)を傷つけ、その飲食を損なわせ、鬼神の祭祀を絶たせ、結局、わしの不徳を重ねることになってしまう。こうなったら天下に何と言えばいいのだ。
朕は宗廟を保つことができた。眇眇(細小)の身を天下の君王の上に託して二十余年になる。その間、天の霊と社稷の福のおかげで方内(四方の内。国内)は安寧し、兵革(戦争)もなくなった。朕は不敏(聡明ではないこと)なので、過ちを犯して先帝の遺徳を辱めることになるのではないかと常に畏れ、久長の年を経て善い終わりを迎えられないのではないかと懼れてきた。今、幸いにも天年(天寿。寿命)によって高廟を供養することができる(幸いにも天寿を全うして宗廟で高帝に従うことになった)。これは朕の不明に対する嘉(称賛。褒美)である(朕は不明なのに天寿を全うできた。それだけで充分だ)。どうして哀念が必要だろうか。
そこで天下の吏民に令を下す。この令が到ったら、出臨(弔問哀哭)は三日のみとし、皆、喪服を脱げ。取婦(嫁を娶ること)、嫁女(娘を嫁がせること)、祠祀(祭祀)、飲酒、食肉を禁じてはならない。葬事に参加して喪服で臨(哀哭)しなければならない者は、皆、跣(裸足)になる必要はなく、絰帯(喪服で使う麻の帯)も三寸を越えてはならず、布で車や兵器を覆う必要もない。男女の民を動員して宮殿の中で哭臨(哀哭)させてはならない。殿中で臨(哀哭)する必要がある者は、皆、旦夕(朝夜)にそれぞれ十五回だけ声を上げて哭し、礼を終えたら停止せよ。旦夕の臨(哀哭)の時以外は、勝手に哭臨してはならない。既に下棺(埋葬)したら、大紅(大功)を十五日服し、小紅(小功)を十四日服し、纖を七日服してから喪服を脱げ(大功、小功、纖は喪服の種類です。徐々に通常の服に近づき、埋葬が終わってから三十六日で喪が解かれます)。この令(遺詔)の中で触れていない事も全てこの令に基づいて従事せよ(遺詔の主旨を元に他の事も処理せよ)。天下に布告して朕の意を明らかに知らしめよ。霸陵(文帝陵。長安の東南)は山川をそのままとし、改めてはならない(陵墓建築のために山川の形を変えてはならない)。夫人から下の少使に至る者を家に帰らせよ。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、夫人の下には美人、良人、八子、七子、長使、少使がいました。後宮から出して帰らせたのは民間の家系を途絶えさせないためです。
 
中尉周亜夫を車騎将軍に、属国(典属国。異民族を管理します)(『史記集解』によると姓は徐です)を将屯将軍に、郎中令張武を復土将軍に任命しました。周辺の県から現有の士卒一万六千人を動員し、内史の士卒も一万五千人を動員して、棺を埋葬するために山を穿ったり穴を塞ぐ工程を将軍張武に委ねました。
また、諸侯王以下、孝悌力田の者に至るまで、それぞれの地位に応じて金銭・帛布を下賜しました。
 
乙巳(初九日)、文帝が霸陵に埋葬されました。
漢書・文帝紀』の注によると、霸陵は長安の東南にあります。

群臣がそろって頓首し、「孝文皇帝」の尊号諡号を贈りました。
 
以下、『史記・孝文本紀』『漢書・文帝紀』『資治通鑑』から西漢文帝の評価です。
孝文帝は代から京師に入って帝位に即き、二十三年間、天下を治めました。その間、宮室、苑囿、車騎(『漢書』と『資治通鑑』は「車騎」。『史記』は「狗馬」)、服御(服飾器物)が増やされることはなく、民が不便とする法令があったらすぐに緩めて民の利としました。
かつて露台を造ろうとして工匠を招きました。工匠は費用を計算して百金に値すると答えます。
すると文帝は「百金は中人(中等の家庭)十家の財産だ。わしは先帝の宮室を奉じており、それを辱めることを恐れている。台が何になるだろう」と言って中止しました。
文帝はいつも弋綈(黒くて粗い織物)を着ており、寵幸した慎夫人も衣服が地につくことがありませんでした。帷帳には文繍(刺繍)がなく、天下に率先して敦朴を示しました。
霸陵を建設した時も、全て瓦器を用いており、金、銀、銅、錫の装飾を禁止しました。高大な墳墓は作らず、山の形をそのまま利用しています。なるべく節約に努めて民を煩わせないようにしました。
南越王・尉佗が自立して武帝を称した時、文帝は尉佗の兄弟を招いて厚遇し、徳によって懐柔しました。その結果、尉佗は帝号を廃して臣と称しました。
匈奴に対しては和親政策を採り、匈奴が約に背いて入盗しても辺境に守備を命じて兵を深入りさせませんでした。百姓を煩わせて苦しめることを嫌ったからです。
呉王劉濞(高帝の兄の子)が病と偽って入朝しなかった時は、譴責するのではなく几杖(肘掛けと杖)を下賜しました西漢景帝前三年・前154年に述べます)
群臣の袁盎等が厳しい言葉で諫言した時も、常に寛大な態度で受け入れました。
張武等が賄賂として金銭を受け取り、それが発覚したことがありました。しかし文帝は獄吏に下すことなく、御府から金銭を出して更に賞賜を増やすことで、彼等に慚愧の心を持たせました。
文帝が徳によって民を教化することに専念したため、海内が安寧になり、民が豊かになりました(家給人足)。礼義が興隆して断獄(死刑の判決)は数百だけになり、刑罰がほとんど使われなくなります。
後世の帝王で文帝に及んだ者はまず存在しません。
 
[] 『史記・孝文本紀』『漢書・景帝紀』『資治通鑑』からです。
丁未(初九日)、太子劉啓が高廟で皇帝の位に即きました。これを景帝といいます。
景帝も文帝と並んで西漢の名君と評価されており、二人の治世は「文景の治」として称えられています。
 
太后(文帝の母)薄氏を尊んで太皇太后とし、皇后(景帝の母)竇氏を皇太后としました。
帝の祖母を太皇太后、帝の母を皇太后といいます。
 
[] 『漢書・景帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、孛星(異星。彗星の一種)が西方に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この歳、長沙王呉著(または「呉産」「呉差」)が死にました。子がいなかったため国が除かれました。
 
長沙国は高帝五年(前202年)に呉芮(文王)が王に封じられ、同年六月に呉芮が死ぬと、子呉臣(成王)が継ぎました。
その後、呉回(哀王。前193年が元年)、呉右(または「呉若」。共王。前186年が元年)と続き、呉著(靖王。前178年が元年)が最後の王となりました。
長沙国が廃されたため、南越等の辺境を除くと、異姓王(劉氏以外の王)の国は完全に消滅しました。
 
かつて高帝が呉芮の賢才を認めて御史にこう命じました「長沙王は忠臣である。よって著令(制度)を定めよ。」
高帝は劉姓以外の者を王に立てないと決めましたが、呉芮だけは特例として王位を守らせました。この「著令」は長沙王の車服や土地に関する決まりのようです。
 
孝恵皇帝と高后(呂太后の時代、呉芮の庶子二人が列侯に封じられました。その子孫は数世に渡って国を伝えてから断絶しました。
封侯された二人は、『史記恵景間侯者年表』『漢書高恵高后文功臣表』に記述があります。
一人は便侯呉浅で、呉芮の子です。恵帝元年九月に封侯されました。諡号は頃侯で、二千戸です。
恭侯呉信と呉広諡号不明)を経て、呉千秋の時代になって、武帝によって廃されました。
しかし宣帝の時代になって呉浅の玄孫呉長陵が改めて封侯されました。
 
もう一人は沅陵侯呉陽で、諡号は頃侯です。『漢書』は「父長沙王の功によって封侯した」と書いているので、呉芮の子のようですが、『史記』は呉陽を「長沙嗣成王の子」としています。「嗣成王」が「成王呉臣」を指すとしたら、呉陽は呉芮の孫、呉臣の子になります。
また、『史記』『漢書』とも呉陽の子を「頃侯呉福」としていますが、呉陽も「頃侯」なので恐らく誤りです。『史記志疑(巻十二)』は呉福の諡号を「頃侯ではなく順侯ではないか」と書いています。
沅陵侯は呉陽、呉福と続き、西漢景帝の時代、呉福を継いだ哀侯呉周が死んで後継者がいなかったために廃されました。
 
 
 
次回から西漢景帝の時代です。

西漢時代63 景帝(一) 祖宗の廟 前156年