西漢時代63 景帝(一) 祖宗の廟 前156年

今回から西漢景帝の時代です。
 
孝景皇帝
文帝の子で劉啓といいます。母は竇太后です。
西漢文帝後七年(前157年)六月に文帝が死に、劉啓が即位しました。
 
史記孝文本紀』はこう書いています。
「孝景皇帝は孝文の中子(長子と末子以外の子)で、母は竇太后である。
孝文皇帝が代にいた時(代王だった時)、前后(前妻)に三人の男児ができたが、竇太后が寵愛を得てから、前后が亡くなって三子も前後して死んでしまった。そのため孝景皇帝が即位できたのである。」
 
漢書帝紀』には文帝の前后(前妻)と三子に関する記述がありません。
史記』の世家と『漢書』の列伝を見ても、
史記梁孝王世家』
「孝文帝には四男がいた。長子は太子で孝景帝になった。次の子は武、次の子は参、次の子は勝(恐らく「揖」の誤り)という。」
漢書文三王伝(巻四十七)
「孝文皇帝には四男がいた。竇皇后が孝景帝と梁孝王武を生み、諸姫が代孝王参と梁懐王揖を生んだ。」
と書かれているだけです。
資治通鑑』胡三省注も景帝を文帝の長子としています。
 
 
西漢景帝前元年
乙酉 前156
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
冬十月、景帝が御史に詔を下しました「古においては、祖には功があり、宗には徳があり、礼楽を制定するにはそれぞれ理由があったと聞いている(『史記集解』によると、始めて天下を取った者を祖というので高帝が高祖になり、始めて天下を治めた者を宗というので文帝が太宗と称されました。『漢書』の顔師古注は『集解』の解説を否定しており、「祖」は「始」と同じ意味で「始めて命(天命)を受けた者」を指し、「宗」は「尊」に通じて「徳があって尊ぶべき者」を指す、としています)。歌とは徳を発揚するためにあり、舞とは功を明らかにするためにあるとも聞いている。高廟に酎(宗廟に献じる酒)を供えたら『武徳』『文始』『五行』の舞を奏で、孝恵廟に酎を供えたら『文始』『五行』の舞を奏でる。
孝文皇帝は天下に臨んでから関梁(陸路や橋の関所)を通じて遠方を異ならせなかった(近い所も遠い所も同等にした)。誹謗の罪を除き、肉刑を廃し、長老に賞賜を与え、孤独(「孤」は孤児。「独」は子孫がいない老人)を收恤(収容救済)し、こうして群生を育てた。嗜欲を減らして献(貢物)を受けず、その利を自分のものとしなかった。罪人の妻子を没収せず(罪人の妻子に刑を及ぼさず。原文「罪人不帑」)、無罪の者を誅殺しなかった。宮刑を除き(実際には宮刑は廃止していないはずです)後宮の)美人を出して(民間に帰らせて)、人の世が絶たれることを重視した(民に後嗣ができなくなるという問題を重視した)。朕は不敏(聡明ではないこと)なので(文帝の功績を)全て知り尽くすことができない。
これらの業績は皆、上古(の聖人帝王)も及ばなかったことだが、孝文皇帝は自ら行った。その徳の厚さは天地と等しく、利沢は四海にまで施され、福を得なかった者はいない。このように、その明(光明。聖明)は日月のようであるのに、相応しい廟楽(祭祀の楽舞)がないので、朕は甚だしく懼れている。よって孝文皇帝廟のために『昭徳』の舞を作り、休徳(美徳)を明らかにするべきである。そうすれば、この後、祖宗の功徳は竹帛に記され、万世に伝えられて永永無窮となる。朕はこれを嘉する(このような状態に賛成する)。丞相、列侯、中二千石の官員、礼官は共に礼儀を整えて上奏せよ。」
 
丞相申屠嘉等が上奏しました「陛下は孝道を永く思い、『昭徳』の舞を作って孝文皇帝の盛徳を明らかにすることにしました。臣嘉等は愚かなので全て考えが及ばないことです。臣等が謹んで議したところ、世功(歴代の功績)が高皇帝より大きい者はなく、徳が孝文皇帝より盛んな者はいません。高皇帝廟は帝となる者(漢の歴代皇帝)の太祖の廟とし、孝文皇帝廟は帝となる者の太宗の廟とするべきです。天子は世世(代々)祖宗の廟を奉献し、郡国諸侯はそれぞれ孝文皇帝のために太宗の廟を建てます。諸侯王や列侯は使者を送って天子の祭祀(京師の宗廟の祭祀)に従わせ、天子は毎年祖宗の廟を奉献します。これらを竹帛に記して天下に宣布することを請います。」
景帝は制(皇帝の命令)を下して「可」と言いました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春正月、景帝が詔を発しました「最近連年不作のため(歳比不登)、民の多くが食糧に欠乏し、夭絶天年(早死)している者もいる。朕はこれを深く痛んでいる。郡国によっては磽陿(土地が痩せていて狭いこと)のため農桑毄畜(牧畜。顔師古注によると、「毄」は家畜に餌をやって養うという意味)をする場所もないのに、逆にある郡国では、地が饒広(肥沃で広いこと)で、草莽(草むら)が豊富なうえ水泉の利もあるのに(民は)遷ることができない。よって、民の中に寛大(広大)な地に移ることを欲する者がいたら、その意見を聴け(移住を許可せよ)。」
 
[] 『史記孝景本紀』と資治通鑑』からです。
夏四月乙卯(二十二日)、天下に大赦しました。
 
史記孝景本紀』は四月乙卯(二十二日)大赦の後に「乙巳、民に爵一級を下賜した」と書いています。
しかし乙巳は乙卯の十日前なので、四月十二日になります。
史記志疑』は「大赦の前に爵位を下賜するはずがなく、二者の間に十日あるのも離れすぎている」として、「乙巳(十二日)」という記述を「衍(余分)」と判断しています。
よって、「四月乙卯(二十二日)大赦して民に爵一級を下賜した」とするのが正しいようです。
漢書帝紀』は「夏四月、天下に大赦して民に爵一級を下賜した」と書いており、日付を明らかにしていません。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
匈奴が代に入りました。
景帝は御史大夫陶青を代国の辺塞に派遣して匈奴と和親しました。
資治通鑑』胡三省注によると、陶青は高帝の功臣陶舍の子で開封侯です。陶氏は陶唐氏(帝堯)の後代といわれています。
 
漢書帝紀』は御史大夫を「青翟」としており、文穎の注釈は「姓は厳、諱(名)が青翟」と解説しています。しかし晋代の注釈(臣瓉)は「これは陶青である。荘青翟(厳青翟)武帝の時代の人なので、本紀の誤り」としており、更に顔師古注が「後人が翟の字を増やしたのであって、本来は景帝紀の誤りではない」と解説しています。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
五月、景帝が再び民から田租の半分を徴収することにしました。
 
西漢文帝前十二年(前168年)、民の田租が半分にされ、翌年には田租が完全に免除されました。
しかし今回、収入の三十分の一が税として取られることになりました(三十而税一。元の田租は収入の十五分の一です。今回はその半分になったので収入の三十分の一に当たります)
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋七月、景帝が詔を発しました「吏(官吏)が監臨(監督)を受けるにあたって、飲食(飲食による礼物や接待)によって罷免されるのは重すぎる。財物(賄賂)を受け取ったり、物を安く買い取って高く売っている者(賎買貴売)に対しては軽い処罰で済ませている。廷尉と丞相は改めて著令(制度)を議せ。」
廷尉(姓は不明です。『漢書百官公卿表下』にも「廷尉信」としか書かれていませんと丞相申屠嘉が慎重に議論してこう定めました「吏(官吏)および秩がある者(大臣文武百官)は、自らが監督、管理、考察、指揮(所監所治所行所将)をしている官属(部下)から(飲食による接待や礼物を)受けとった場合、飲食の費用を計算して償えば罪を問わない。
他の物(飲食以外の物)に対しては、もし故意に安く買って故意に高く売ったら、全て盗として貪汚の罪を裁き(坐臧為盗)、臧(贓物。貪汚によって得た物)を没収して県官に入れる。吏が異動や罷免した時に元の官属(部下)で指揮監督管理していた者から財物を受け取ったら、爵位を奪って士伍(兵卒)とし、官職を免じる。爵位がない者は罰金二斤を科し、受け取った物を没収する。捕告(逮捕検挙)できた者には受け取った臧(贓物。賄賂)を与える。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて西漢文帝が肉刑を廃止したため、外に対しては刑を軽くしたという名分ができました。しかし内実は逆に人が殺されるようになりました。右足を斬る刑に当たる者は死刑に処され、左足を斬る刑に当たる者は笞五百、劓刑に当たる者は笞三百になりましたが、どちらの笞刑でも多くが命を落としました西漢文帝前十三年167年参照)
 
この年西漢景帝前元年156年)、景帝が詔を発しました「笞を加える刑と重罪(死刑)とでは違いがないため、幸い死ななかったとしても、人となることはできない(体が不自由になる。自分では生活できなくなる)。よって律を改定し、笞五百を三百に、笞三百を二百にする。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、太中大夫周仁を郎中令に、張歐を廷尉に、楚元王(劉交。高帝の弟)の子にあたる平陸侯劉礼を宗正に、中大夫鼂錯を左内史に任命しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、内史は京邑を治める官で、西漢武帝の時代(または景帝前二年・前155年。翌年述べます)に左右の内史に分けられました。恐らく「左内史」は「内史」の誤りです。
 
本文に戻ります。
周仁は元々太子舍人として劉啓(景帝)に仕えており、廉謹によって幸を得ました。
張歐も景帝が太子宮にいた頃から仕えていました。刑名(法家)の教えを修めましたが、為人は長者の気風があり、景帝に重用されたため九卿(奉常(後の太常)、郎中令(後の光禄勲)、衛尉、太僕、廷尉、典客(後の大鴻臚)、宗正、治粟内史(後の大司農)、少府)になりました。
張歐が官吏になってからは、人を苛酷に懲罰したことがなく、誠実な長者の態度で官に就きました。官属も張歐を長者とみなして欺瞞を行おうとしませんでした。
 
[] 『史記孝景本紀』はこの年に「群臣に朝賀しないように命じた」と書いています。
「朝賀」は新年の慶賀を指すと思いますが、本年(景帝前元年)の朝賀を中止したのか、翌年歳首に朝賀しないように命じたのかは分かりません。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代64 景帝(二) 申屠嘉の死 前155年