西漢時代64 景帝(二) 申屠嘉の死 前155年

今回は西漢景帝前二年です。
 
西漢景帝前二年
丙戌 前155
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十二月、孛星(異星。彗星の一種)が西南に現れました。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
景帝が令を下し、天下の男子は二十歳で傅を義務付けることにしました。
「傅」というのは官府に姓名を登記して「正卒」となり、徭役や兵役の義務を負うことです。
資治通鑑』胡三省注によると、旧制では二十三歳からとされていましたが、今回、二十歳に早められました。
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀』からです。
春、元相国蕭何の孫に当たる蕭係を封侯しました。
漢書帝紀』は「列侯にした」としか書いていませんが、『史記孝景本紀』では「武陵侯」に封じられています。しかし漢書蕭何曹参伝(巻三十九)史記高祖功臣侯者年表』『漢書高恵高后文功臣表』では「武陽侯」です。
 
また、『史記』と『漢書』の本紀では蕭何の孫の名を「蕭係」としていますが、列伝と年表では「蕭嘉」になっています。
以下、『漢書蕭何曹参伝』史記高祖功臣侯者年表』『漢書高恵高后文功臣表』から蕭何の子孫に関して簡単に紹介します。
恵帝二年(前193年)、酇侯蕭何が死にました。文終侯という諡号が贈られます。
蕭何の子蕭禄(哀侯)が跡を継ぎましたが、死後、子がいなかったため、高后(呂太后は蕭何の夫人(懿侯)を酇侯に封じました(『史記』年表は「同は禄の弟」と書いていますが誤りです)
また、蕭何の小子延を筑陽侯に封じました。
 
文帝元年(前179年)、蕭何の夫人同を免じて筑陽侯・蕭延(定侯)を酇侯に改めました。
蕭延死後は子の蕭遺(煬侯)が継ぎます。しかし蕭遺にも子がいなかったため、蕭遺の死後、文帝は蕭遺の弟則に跡を継がせました。
ところが蕭則は罪を犯して廃されてしまいます。
景帝二年(本年)、景帝が御史に詔を発して「故相国何は高皇帝の大功臣であり、共に天下を為した(治めた)。今、その祀が絶えてしまったが、朕は深くこれを憐れむ。よって、武陽県の戸二千を蕭何の孫嘉に封じて列侯にする」と言い、蕭則の弟(幽侯)を封侯しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月甲寅(二十七日)、皇子(景帝の子)劉徳を河間王に、劉閼を臨江王に、劉餘を淮陽王に、劉非を汝南王に、劉彭祖を広川王に、劉発を長沙王に封じました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、河間王の都は楽成、臨江王の都は江陵、淮陽王の都は陳、汝南王の都は平輿、広川王の都は信都、長沙王の都は長沙です。
 
史記孝景本紀』が「広川、長沙王皆之国(「之」は「行く」の意味)」と書いているので、諸王は長安に留まらず、封国に赴いたようです。
 
[五] 『史記景本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏四月壬午(二十五日)太皇太后薄氏(薄太皇。文帝の母。景帝の祖母)が死にました。
 
[六] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
六月、丞相申屠嘉が死にました。
 
当時、内史鼂錯がしばしば単独で景帝と国政について語っており、景帝はその意見をいつも採用していました。その寵幸は九卿をしのぐほどで、法令の多くが改訂されていきます。
丞相申屠嘉は進言が用いられなくなったため自ら引き下がり、鼂錯を恨みました。
 
鼂錯は内史になってから東方に外出するのが不便だったため、官府から南に出るための門を造りました。この門のために太上皇(高帝の父の廟)の外にある空地の壁に穴があけられます。
 
申屠嘉は鼂錯が宗廟の壁に穴をあけたと聞き、上奏して鼂錯誅殺を請うことにしました。
それを知った客(恐らく申屠嘉の賓客)が鼂錯に伝えます。
鼂錯は恐れて夜の間に入宮し、景帝に謁見して自首しました。
 
翌朝、申屠嘉が内史鼂錯の誅殺を請うと、景帝はこう言いました「鼂錯が穿ったのは真の廟垣(宗廟の壁)ではなく、外堧(外の空地)の垣(壁)であり、かつての冗官(散官。実際の職務がない官)が住んでいる場所だ。そもそもわしが彼にそうさせたのである。錯は無罪だ。」
丞相申屠嘉は謝罪しました。
 
朝議が終わってから、申屠嘉が長史に言いました「わしは先に錯を斬ってから(陛下に誅殺を)請うべきだった。そうしなかったことを後悔している。錯に売られてしまった(欺かれてしまった)。」
申屠嘉は官舍に帰ってから憤激の余り血を吐いて死んでしまいました。
鼂錯がますます尊貴になります。
 
[七] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋、匈奴との和親を強化しました。
 
[八] 『史記孝景本紀』と『資治通鑑』からです。
八月丁未(中華書局『白話資治通鑑』は「丁未」を恐らく誤りとしています)御史大夫開封陶青を丞相にしました。
丁巳(初二日)、内史鼂錯を御史大夫にしました。
御史大夫は九卿より上の三公に当たります。
 
[九] 『史記孝景本紀』と『資治通鑑』からです。
彗星が東北に現れました。
 
[十] 『史記孝景本紀』と『資治通鑑』からです。
秋、衡山で雹が降りました。大きさは五寸もあり、二尺も積もりました。
 
[十一] 『史記孝景本紀』と『資治通鑑』からです。
熒惑(火星)が逆行して北辰中宮天極星)を守り、月が通常の運行から外れて北辰の区域に現れ、歳星木星が天廷(太微星。人君を象徴します)を逆行したといわれています。
 
[十二] 『史記孝景本紀』からです。
南陵および内史、祋に県を置きました。
全て長安周辺の地名です。
 
漢書地理志上』を見ると、に県が置かれたのは本年(景帝二年)ですが、南陵は文帝七年(前173年)に県が置かれています。
内史に関する記述も異なります。『地理志上』によると、高帝元年(前206年)には塞国に属しており、二年(前205年)に河上郡に改名されましたが、九年(前198年)に再び内史に戻されました。武帝建元六年(前135年)に左右内史に分けられます。景帝に関する記述はありません。
但し『漢書公卿百官表上』では景帝二年に左右に分けられており、顔師古注は『地理志』が誤りと判断しています。
「内史」に県を置いたというのは、左内史と右内史に分けて県にしたという意味のようです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
梁孝王劉武(文帝の子。景帝の弟)は竇太后(景帝の母)の少子だったため寵愛を受けていました。四十余城を擁して天下の膏腴の地(肥沃な地)を治めています。
与えられた賞賜は数え切れず、府庫の金銭は百巨万(百億)に迫り、珠玉宝器は京師よりも豊富でした。
東苑を築いたら方三百余里に及び、睢陽城を七十里も拡大し、大規模な宮室を建造し、複道(二階建ての廊下)を築いて宮殿から平台の離宮まで三十余里をつなげました。
 
四方から豪俊の士を招き、呉人枚乗、厳忌、斉人羊勝、公孫詭、鄒陽、蜀人司馬相如等が梁王に従って交遊しました。
資治通鑑』胡三省注によると、枚姓には戦国時代に賢人枚被がいました。厳忌は本来、荘姓ですが、『漢書』が東漢明帝の諱(名)である「荘」を避けて「厳」に改めたため、『資治通鑑』もそれに倣っています。羊は春秋時代晋の羊舌大夫の子孫です。鄒は国名から生まれた氏です。
 
梁王劉武が入朝する時は、いつも景帝が使者に符節を持たせて乗輿駟馬で梁王を関下(函谷関)まで迎えに行かせました。京師に至ると較べる者がないほど寵幸を受けます。
入宮の際は景帝と同じ輦に乗り、外出する際も同じ車に乗り、上林苑で狩をしました。
梁王が景帝に上書して京師に留まることを願ったため、半歳近く封国に帰りませんでした。
梁から来た侍中、郎、謁者(梁王の臣下)は籍(名簿)に名を登記してあり、天子の殿門を出入りして漢(中央)の宦官と違いがありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代65 景帝(三) 梁王劉武 前154年(1)