西漢時代65 景帝(三) 梁王劉武 前154年(1)

今回は西漢景帝前三年です。六回に分けます。
 
西漢景帝前三年
丁亥 前154
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月、梁王劉武が来朝しました。劉武は景帝の弟で、文帝の少子です。竇太后(景帝の母)は少子劉武をとても可愛がっていました。
 
景帝はまだ太子を置いていませんでした。
景帝と梁王が宴飲した時、景帝が平然と言いました「千秋万歳の後には(皇帝崩御後)(帝位を)王に伝えよう(梁王に帝位を継承させよう)。」
梁王は謝辞を述べて辞退しましたが、至言(真面目な言葉)ではないと知っていても心中で喜びました。竇太后も同じです。
しかし詹事(皇后や太子の家を掌る官。『資治通鑑』胡三省注によると、秩は真二千石)竇嬰(竇太后の親族)が卮(杯)を取って景帝に酒を勧め(『資治通鑑』胡三省注によると、景帝に対する罰の酒のようです)、こう言いました「天下は高祖の天下です。父子が相伝するのは漢の約(決まり)です。上(陛下)はなぜ梁王に伝えることができるのですか。」
太后は竇嬰を憎むようになりました。
それを知った竇嬰は病を理由に職を辞します。すると竇太后は竇嬰の門籍(宮門に出入りするための籍)を除き、朝請(春と秋の盛大な朝会)にも参加できなくしてしまいました。
太后に守られた梁王はますます驕慢になります。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
十二月、景帝が詔を発しました「襄平侯嘉の子恢説は不孝であり、謀反を企んで嘉を殺そうとした(顔師古注によると、恢説は父に怨みがあったため、自ら謀反して父を連座させようとしたようです)。大逆無道である。嘉は赦して(そのまま)襄平侯とし、(嘉の)妻子で罪に坐すべき者も元の爵に戻す(本来、子に大逆の罪があったら父母や兄弟も処刑されましたが、嘉とその妻、兄弟は赦されました)。恢説とその妻子は法に則って処罰する。」
 
史記高祖功臣侯者年表』と『漢書高恵高后文功臣表』によると、襄平侯は紀通が高帝八年(前199年)後九月(閏九月。または「九月」)丙午に封じられました。
紀通の後は景帝中三年(前147年)に康侯相夫が継いでおり、どちらの表にも「嘉」という名はありません。
あるいは、紀通と紀相夫の間に紀嘉がいたのかもしれません。
 
[] 『史記孝景本紀』と『資治通鑑』からです。
春正月乙巳(二十二日)大赦しました。
 
[] 『史記孝景本紀』と資治通鑑』からです。
長星(彗星の一種)が西方に現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
洛陽の東宮で火災が起きました。
洛陽は河南郡の治所です。かつて高帝が一時的に都にしたため、宮殿が建てられました。『資治通鑑』胡三省注によると、南宮、北宮、東宮がありました。
 
史記孝景本紀』も「天火(雷等の自然現象による火災)によって雒陽(洛陽)東宮の大殿城室(城楼)が焼かれた」としています。
 
しかし『漢書帝紀』には「淮陽王宮の正殿で火災があった」と書かれています。
史記索隠』は『史記孝景本紀』の「雒陽」を誤りとし、淮陽の王宮で火災があったため、淮陽王を魯に遷したと解説しています。本年六月乙亥(二十五日)に淮陽王劉餘が魯王に遷されます。
 
[六] 『資治通鑑』からです。
西漢文帝の時代、呉の太子が入京して文帝に謁見しました。
資治通鑑』胡三省注は『楚漢春秋』から引用して、「呉太子の名は劉賢、字は徳明」としています。
 
呉太子が皇太子・劉啓(景帝)と酒を飲み、博囲碁将棋のような遊戯)で遊ぶ機会がありました。
呉太子が博で道(駒の道)を争い、態度が不恭(不遜)だったため、皇太子は怒って博局(博の台)を持ち上げ、呉太子を殴って殺してしまいました。
朝廷は喪(霊柩)を帰国させて呉王に葬儀を行わせました。しかし喪が呉に到着すると、呉王劉濞は怒ってこう言いました「天下は同宗(同姓)である(天下は我々劉氏のものである)長安で死んだのなら長安に埋葬するべきだ。どうして送り返して埋葬する必要があるのだ!」
呉王は再び喪を長安に送って埋葬させました。
この後、呉王は藩臣の礼を失い始め、病と称して朝見しなくなりました。
京師(中央)は呉王の病が偽りで太子が殺されたために朝見しなくなったと知っていたので、呉から来た使者を繫治験問(逮捕審問)しました。
呉王は恐れて謀反を企むようになります。
 
後に呉王が人を送って秋請しました。秋請というのは秋の朝見です。春は「朝」、秋は「請」といいました。本来は国王が自ら参加するものですが、呉王は使者を派遣しただけでした。
 
文帝が再び呉王の状況について問うと、使者はこう答えました「実は王は病ではありません。漢(中央)が何回も使者を繫治(逮捕)したので、呉王は恐れて病と称しているのです。『淵の中の魚を察見するのは不祥(天子が下の者が隠している事を詳しく知ろうとすると禍が生まれる。原文「察見淵中魚不祥」)』といいます。上(陛下)(呉王の)前過(以前の過失)を追求せず、更始(自新)の機会を与えることを願います。」
文帝は呉の使者を釈放して帰らせ、更に呉王に几杖(肘掛けと杖)を下賜し、老齢なので朝見する必要がないと伝えました。
呉王は罪が赦されたため徐々に謀反の企みを解きます。
 
呉国は銅と塩を産出していたため、百姓から賦を徴収する必要がないほど豊かでした。銅は鋳造されて貨幣になり、塩は各地に輸出されています。
また、民が兵役や徭役に就く必要がある時は、官府が金銭を出して代わりの者を雇いました。
資治通鑑』胡三省注によると、服役が必要な者は銭三百を政府に納めて別の者と交代することが許されていました。金銭を納めて交代することを「過更」、金銭を受け取って服役することを「践更」といいます。
呉王は人心を得るために、民に代わって「過更」を負担していました。
 
更に呉王は歳時(四季)ごとに茂材(秀才)を慰問し、閭里(民衆)に賞賜を与えました。他の郡国から官吏が来て亡人(流亡の者。逃亡者)を捕まえようとしても、呉王は公然と阻止して引き渡しませんでした。
呉ではこのような治世が四十余年続いています。
 
朝廷では鼂錯がしばしば呉の過失を上書して封地を削減するように勧めましたが、寛厚な文帝は処罰するのが忍びず、黙認しました。
呉は日に日に驕慢横柄になります。
 
景帝が即位すると、鼂錯が改めて上奏しました「昔、高帝が初めて天下を定めた時は、昆弟(兄弟)が少なく諸子も弱小だったため、大いに同姓を封じました。斉(劉肥。高帝の庶長子)に七十余城を、楚(劉交。高帝の弟)に四十余城を、呉(劉濞。高帝の兄の子)に五十余城を与え、この三庶孽(長嫡ではない者)が天下の半分を擁したのです。今、呉王は太子に起因するかねてからの対立があるため、偽って病と称し、朝見していません。古法に則るなら誅殺に値します。しかし文帝はそれが忍びなかったため、几杖を下賜して徳を至厚にしました。これに対して彼は過ちを改めて自新するべきですが、逆にますます驕溢(驕慢)になり、山(銅山)を利用して銭を鋳造し、海水を煮て塩を採り、天下の亡人を誘って叛乱を謀っています。今、(呉の領地を)削っても反します。削らなくても反します。削れば謀反が早くなりますが、禍は小さくすみます。削らなければ、謀反は遅くなりますが、禍は大きくなります。」
景帝は公卿、列侯、宗室に雑議(集まって議論すること)させました。すると敢えて鼂錯に逆らおうとする者がいない中、竇嬰だけが反対しました。この後、竇嬰と鼂錯は対立するようになります。
 
楚王劉戊(楚元王劉交の孫)が来朝した時、鼂錯が景帝に言いました「戊(楚王)は往年(昨年)、薄太后(文帝の母)の喪に服している時、服舍(服喪の居室)で秘かに姦淫しました。誅殺を請います。」
景帝は詔を発して楚王の死罪を免じましたが、東海郡を削りました。
資治通鑑』胡三省注によると、東海郡は秦代の郯郡で、西漢高帝によって改名されました。
 
趙王劉遂も前年に罪を犯したという理由で常山郡を削られました。罪の内容はわかりません。
劉遂は趙幽王劉友の子で、劉友は高帝の子です。
更に膠西王劉卬も売爵の事で姦(罪。不法な行為)があったとして六県を削られました。
諸侯の封地を次々と削減してから、大臣達は呉に対する処分を検討し始めました。
 
 
 
次回に続きます。