西漢時代67 景帝(五) 呉楚七国の乱 前154年(3)
今回も西漢景帝前三年の続きです。
[六(続き)] 斉王・劉将閭は膠西王との約束を後悔し、挙兵を拒否して城を守りました。
済北国では城壁が破損して修築が終わっていなかったため、郎中令が無理に済北王・劉志(斉悼恵王・劉肥の子。膠西王等とは兄弟の関係)を留めて出兵させませんでした。
膠西王・劉卬と膠東王・劉雄渠が渠率(統帥)となり、菑川王・劉賢、済南王・劉辟光と共に斉を攻めて臨菑(斉都)を包囲しました。
こうして呉・楚・膠西・膠東・菑川・済南・趙の七王が反乱を起こしました。この事件を「呉楚七国の乱」といいます。
呉王・劉濞 高祖の兄・劉仲の子。都は呉、または江都。
楚王・劉戊 高祖の弟にあたる楚王・劉交の孫。都は彭城。
趙王・劉遂 高祖の孫で趙幽王・劉友の子。都は邯鄲。
膠西王・劉卬 高祖の孫で斉悼恵王・劉肥の子。元平昌侯。都は密州高密県。
済南王・劉辟光 高祖の孫で斉悼恵王の子。元扐侯。済南故城は淄川長山県西北三十里。
菑川王・劉賢 高祖の孫で斉悼恵王の子。元武城侯。都は劇。
膠東王・劉雄渠 高祖の孫で斉悼恵王の子。元白石侯。都は即墨。
呉王・劉濞が国中の士卒を動員するために命じました「寡人の年は六十二になるが、自ら将となる。少子の年はまだ十四だが、率先して士卒になる。年が上は寡人と同じ者、下は少子と等しい者は全て徴発せよ。」
こうして二十余万人が集められました。
更に南の閩や東越にも使者を送ります。閩も東越も兵を発して呉王に従いました。
呉王は広陵で挙兵して西の淮水を渡り、楚兵と合流してから、使者を派遣して各地の諸侯に鼂錯の罪状を訴える書信を届けました。共に兵を合わせて鼂錯を誅殺するように呼びかけます。
呉と楚は協力して梁国を攻め、棘壁を破って数万人を殺しました。勝ちに乗じて進軍を続け、その勢いは甚だしく盛んです。
梁王・劉武(孝王。景帝の弟)が将軍を派遣して迎撃させましたが、梁軍の二隊が呉・楚連合軍に敗北し、士卒は皆、逃げ帰りました。
梁王は睢陽(梁都)の城を守りました。
かつて文帝は死ぬ前に太子・劉啓(景帝)にこう教えました「もし緩急(危急の事)があったら、周亜夫こそ兵の指揮を任せられる。」
七国の反書(謀反を報せる書)が京師に届くと、景帝は中尉・周亜夫を太尉に任命し、三十六将軍を指揮して呉・楚を撃たせました。
また、曲周侯・酈寄に趙を、将軍・欒布に斉(膠西王等)を撃たせ、竇嬰を呼び戻して大将軍に任命し、滎陽に駐屯して斉・趙方面の漢兵を監督させました。
『資治通鑑』に戻ります。
鼂錯が改訂した法令は三十章に上り、諸侯が激しく反対しました。それを聞いた鼂錯の父が潁川(鼂錯の故郷)から京師に出て来て鼂錯にこう言いました「上(陛下)が即位されたばかりだが、公(汝)は政を行って権力を握り、諸侯を侵削し、人の骨肉を疎遠にさせた(皇族間の関係を悪化させた)。口語(世論)の多くが怨んでいる。公はなぜこのようにするのだ?」
鼂錯が答えました「当然のことです(固也)。こうしなかったら天子が不尊となり、宗廟が不安になります。」
父が言いました「劉氏は安泰だが鼂氏は危険だ。わしは公から去って帰ろう。」
故郷に帰った父は「我が身に禍が及ぶのを見るのは忍びない」と言って毒薬を飲んで死にました。
その十余日後、呉・楚七国が鼂錯誅滅を名分に挙兵しました。
文帝が鼂錯と軍事について議論しました。鼂錯は景帝が自ら兵を率いて出征し、自身は都を守ることを希望します。またこう言いました「徐、僮の周辺は呉がまだ攻略していません。呉に与えることができます。」
鼂錯と呉相・袁盎は仲が悪かったため、いつも鼂錯が坐っている場所は袁盎が避け、袁盎が坐っている場所は鼂錯が避けていました。二人が一つの堂(部屋)で話をしたことはありません。
鼂錯が御史大夫になった時、袁盎が呉王から財物を受け取っているという疑いで官吏を送ってを調査しました。その結果、袁盎は有罪とされ、刑を受けることになりました。景帝は詔を発して袁盎を罷免し、庶人に落とします。
呉・楚が反すと鼂錯は丞・史(『資治通鑑』胡三省注によると、御史大夫の下には秩千石の丞が二人と侍御史が十五人いました)にこう言いました「袁盎は呉王から多額の金銭を受け取っているので、(呉王の)罪を隠して庇い、謀反することはないと言っていた。しかし今、本当に謀反した。よって、袁盎を治める(裁く)ように請いたいと思う。その(呉王の)計謀を知っているはずだ。」
しかし丞と史はこう言いました「事が起きる前に治めていれば(裁いていれば)絶つこともできたでしょう(謀反を阻止することもできたでしょう)。しかし今既に兵が西に向かっているのに治めて何の益があるのですか。そもそも盎に謀があるはずがありません(袁盎が陰謀に関わっているはずがありません)。」
鼂錯は逮捕を躊躇しました。
ある人がこの事を袁盎に伝えました。袁盎は恐れて夜の間に竇嬰に会いに行き、呉が背いた原因を語って景帝の前で直接状況を説明する機会を求めます。
竇嬰が入宮して景帝に報告しまたため、景帝が袁盎を招きました。
袁盎が景帝に謁見した時、景帝は鼂錯と兵糧について計っていました。
景帝が袁盎に問いました「今、呉と楚が反したが、公の意見はどうだ?」
袁盎が答えました「憂いるには足りません。」
景帝が言いました「呉王は山(銅山)を利用して銭を鋳造し、海を煮て塩を産出し、天下の豪傑を誘っている。白頭になってから事を起こしたのだ。その計が百全でなかったら挙兵するはずがない。なぜ彼には何もできないと言うのだ?」
袁盎が答えました「呉に銅・塩の利があるのは確かですが、どこに豪傑を誘っているというのでしょうか。もし呉が本当に豪傑を得たというのなら、呉王を補佐して誼(義)に向かわせるので謀反はしません。呉が誘ったのは全て無頼の子弟や亡命者、鋳銭の姦人です。だから互いに乱に誘ったのです。」
鼂錯が言いました「袁盎の言う通りです(盎策之善)。」
景帝が問いました「どのような計を使うべきだ(計安出)?」
袁盎が言いました「左右の者を遠避けてください。」
景帝は人払いをしました。鼂錯だけ残ります。
袁盎が言いました「臣が語ることは、人臣が知ってはならないことです。」
景帝は鼂錯も去らせました。
鼂錯は小走りで東廂に移りましたが、袁盎を深く恨みます。
人がいなくなってから景帝が袁盎に問うと、袁盎が言いました「呉と楚が互いに書を送ってこう訴えました。『高皇帝が子弟にそれぞれ地を分けて王に立てたのに、今、賊臣・鼂錯が勝手に諸侯を罰し、その地を削奪した。だから背反して西進し、共に鼂錯を誅殺することを欲している。故地を回復したら兵を収める。』今の計は鼂錯を斬ることしかありません。使者を発して呉・楚七国を赦し、その故地を回復すれば、兵器が血で刃を汚すことなく全て解決できます。」
景帝は久しく黙って考えてからこう言いました「実際の状況を顧みたらどうであろうか(原文「顧誠何如。」理解が困難ですが、「袁盎の策を用いれば解決できるような状況だろうか」または「他に有効な策はないだろうか」というような意味だと思います)。わしは一人を惜しんで天下に謝す(天下の罪を負う。天下の要求を拒絶する)つもりはない(天下のために必要なら寵臣を棄てることもできる。原文「吾不愛一人以謝天下」)。」
袁盎が言いました「愚計はここに出した通りです。上(陛下)の孰計を待つだけです。」
十余日後、景帝が丞相・陶青、中尉・嘉(姓は不明)、廷尉・張歐に命じて鼂錯を弾劾させました。
三人が言いました「(鼂錯は)主上(陛下)の徳信を裏切り、群臣、百姓の関係を疎遠にさせようとしました。更に城邑を呉に与えようとしましたが、臣子の礼がなく、大逆無道なことです。錯は要斬(腰斬)に値し、父母、妻子、同産(兄弟)も少長(老若)に関係なく全て棄市に処すべきです。」
景帝は制(皇帝の命令)を発して「可」と言いました。
鼂錯はこの状況を全く知りません。
壬子(二十九日)、景帝が中尉・嘉を派遣して鼂錯を招かせました。車で市を巡行すると偽ります。
鼂錯は朝衣を着たまま東市に行き、そこで斬られました。
次回に続きます。