西漢時代68 景帝(六) 周亜夫の討伐 前154年(4)

今回も西漢景帝前三年の続きです。
 
[六(続き)] 景帝は呉王の弟の子にあたる宗正徳侯劉通と袁盎を使者に任命して呉に派遣しました。
漢書王子侯表上』によると、徳侯は高帝十二年(195)十一月庚辰に高帝の兄劉仲の子にあたる劉広が封じられました。諡号を哀侯といいます。哀侯を継いだのが、今回呉に派遣された劉通です。劉通の諡号は頃侯です。
 
校尉を勤めている謁者僕射鄧公が朝廷で軍事に関して上書しました。
鄧公が景帝に謁見すると、景帝が問いました「(汝は)軍から来たが、鼂錯の死を聴いて呉と楚は撤兵したか?」
鄧公が答えました「呉は謀反の準備をして数十歳(年)になります。削地に対して怒りを発し、鼂錯誅殺を名分にしましたが、その意は鼂錯にはありません(目的は鼂錯ではありません)。それに、臣は天下の士が口を塞いで新たに進言しなくなるのではないかと恐れます。」
景帝が問いました「それはなぜだ?」
鄧公が言いました「鼂錯は諸侯が強大になって制御できなくなることを憂慮したから、封地の)削減を請うて京師を尊ばせ、万世の利にしようとしたのです。ところが計画が実行されたばかりなのに大戮を受けてしまいました。これでは内(朝廷)に対しては忠臣の口を塞ぎ、外に対しては諸侯のために仇に報いたことになってしまいます。臣が思うに、陛下はこうするべきではありませんでした。」
景帝は長息して「公の言の通りだ。わしも後悔している(公言善,吾亦恨之)」と言いました。
 
袁盎と劉通が呉軍の陣営に入りました。
呉と楚は既に梁の壁塁を攻撃しています。
宗正劉通は呉王の親戚なので先に営に入って呉王を諭し、詔を拝受するように勧めました。
呉王は袁盎が来ていると聞き、説得が目的だと判断しました。そこで笑って劉通にこう答えました「わしは既に東帝になった。今更、誰を拝すというのだ。」
呉王は袁盎に会おうとせず、軍中に留めて呉将になるように強要しました。
しかし袁盎が拒否したため、呉王は人を送って袁盎を包囲し、殺そうとします。
袁盎は隙を見つけて逃走し、朝廷に還って景帝に報告しました。
 
太尉周亜夫が景帝に言いました「楚兵は剽軽(剽悍鋭敏)なので鋒を争うのは困難です(正面から戦って勝利を争うのは困難です。原文「難與争鋒」)。梁は放棄して敵の食道を断つことを願います。こうすれば抑制できます。」
景帝はこれに同意しました。
周亜夫は六乗の伝(駅車)に乗って(「周亜夫一行は六乗の駅車に乗って」、または「周亜夫は六乗の駅車を乗り継いで」)滎陽で漢の大軍と合流することにしました。
霸上まで来た時、趙渉が周亜夫を止めて言いました「呉王は以前から富裕を擁しており、死士を懐輯(懐柔)して久しくなります。今、将軍が動いたと知ったら、必ず間人(刺客)を殽(殽山と澠池)の間の阸陿(険阻狭隘)な地に置くはずです。そもそも兵事とは神密を尊ぶものです。将軍はなぜここから右に向かい、藍田を通って武関を出て、洛陽に至らないのですか。このように迂回すれば一二日の差があるだけで直接武庫(洛陽の武庫)に入り、鼓を打ち鳴らすことができます。諸侯がそれを聞いたら、将軍が天から降りてきたと思うでしょう。」
太尉周亜夫はこの計に従いました。
 
周亜夫は無事洛陽に入ると喜んでこう言いました「七国が反したが、わしは伝(駅車)に乗ってここに来ることができた。安全を保てるとは思ってもいなかった(不自意全)。今、わしは滎陽を拠点とした。滎陽以東には憂いるに足る者はいない。」
 
史記呉王濞列伝(巻百六)』と『漢書荊燕呉伝(巻三十五)』では、劇孟という者が登場します。
周亜夫は滎陽で漢軍と合流してから雒陽に入りました。そこで劇孟に会います。
周亜夫は喜んでこう言いました「七国が反したが、わしは伝(駅車)に乗ってここに来ることができた。安全を保てるとは思ってもいなかった。それに、諸侯が既に劇孟を得たと思っていたが、劇孟は今も動いていない。わしが滎陽を拠点にすれば、滎陽以東には憂いるに足る者はいない。」
 
史記游俠列伝(巻百二十四)』も劇孟について書いています。
雒陽に劇孟という者がいました。本来、周人(洛陽の人)は商賈を資(生業)とするものですが、劇孟は任俠によって諸侯に名が知られていました。
呉楚が反した時、條侯(周亜夫)が太尉になり、伝車に乗って河南に入りました。そこで劇孟を得たため、喜んでこう言いました「呉楚は大事を挙げたのに孟(劇孟)を求めなかった。わしは彼等が何もできないことを知った。」
天下が騒動した時、宰相が劇孟を得たら対等の国を一つ得たのと同じくらい価値があると考えました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこれらの記述に対してこう書いています。
史記』と『漢書』は「太尉は劇孟を得て対等の国を一つ得たように喜び、『呉、楚には憂いるに足る者はいない』と言った」と書いているが、劇孟は一游俠の士に過ぎない。周亜夫が彼を得たからといって、どうしてそれほどまで重んじる必要があるだろう。これは劇孟の名を重くさせるために妄りに書いたことなので、信じるに足りない。
 
本文に戻ります。
周亜夫が殽澠の間に官吏を送って探らせました。すると本当に呉の伏兵がいました。
周亜夫は景帝に申請して趙渉を護軍にしました。
 
周亜夫が兵を率いて東北の昌邑(梁地)に至りました。
呉が梁に猛攻を加えているため、梁王劉武はしばしば條侯周亜夫に救援を求めましたが、周亜夫は同意しませんでした。
梁王は使者を長安に送って景帝に周亜夫を訴えました。景帝は周亜夫に使者を送って梁救援を命じます。ところが周亜夫は詔も拒否し、営壁を固めて出陣しませんでした。
但し、周亜夫は弓高侯等に軽騎兵を率いて淮泗口(泗水が南下して淮水に入る場所)に向かわせ、呉楚連合軍の後ろを断って饟道(糧道)を塞ぎました。
漢書高恵高后文功臣表』によると、弓高侯は西漢文帝前十六年(164)六月丙子に韓頽当が封じられました。韓頽当は匈奴に降った韓王信の子で、匈奴で相国を勤めていましたが、漢に帰順しました。諡号を壮侯といいます。
 
梁王は中大夫韓安国と楚相張尚の弟に当たる張羽を将軍に任命しました。張羽が力戦して韓安国が持重(慎重に行動すること)したため、なんとか小さな勝利を得て呉兵を防ぐことができました。
 
呉軍は西に向かおうとしましたが、梁城が固守しているため西進できません(西に動いたら梁が後ろを襲う恐れがあります)
そこで目標を周亜夫軍に変えて下邑(梁国)で対峙しました。
しかし呉軍が決戦を求めても周亜夫は営壁を固めて応じませんでした。
その間に呉の食糧が途絶えて士卒が飢えに苦しみ始めます。呉軍がいくら戦いを挑んでも周亜夫が出撃しないため、呉軍はますます困窮しました。
 
ある夜、周亜夫の軍中で突然騒ぎが起きました。これは「夜驚」という現象で、陣中においてしばしば発生します。原因はわかりません。
味方同士で攻撃し合い、騒乱は周亜夫の帳下にまで至りましたが、周亜夫は決して起きようとしませんでした。
騒ぎは暫くして収まりました。
 
呉軍は漢営の東南角に向かって兵を集めました。すると周亜夫は反対に位置する西北の守りを固めました。
やがて呉軍は精兵を集めて西北を急襲しました。しかし周亜夫が備えを設けていたため進入できません。
楚の士卒は多くが餓死したり背いて離散しました。
呉王はあきらめて退却を始めます。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代69 景帝(七) 呉楚敗退 前154年(5)