西漢時代70 景帝(八) 乱の終息 前154年(6)

今回で西漢景帝前三年が終わります。
 
[十] 『資治通鑑』からです。
膠西王等はそれぞれの兵を率いて帰国しました。
膠西王劉卬は徒跣(裸足)になり、席藁(藁の蓆に座臥すること)し、水だけを飲んで太后(王の母)に謝罪しました。
膠西王の太子劉徳が言いました「漢兵は引き上げました。臣が観たところ、既に疲労しているので襲撃できます。王の余兵を集めて撃つことを希望します。それでも勝てなかった時に、逃げて海に入っても晩くはありません。」
膠西王が言いました「我が士卒は皆、既に崩壊した。用いることができない。」
 
弓高侯韓頽当が膠西王に書を送りました「詔を奉じて不義を誅すことになりました。降った者は赦してその罪を除き、元に復しますが、降らなかった者は滅さなければなりません。王はどちらを選ぶつもりでしょうか。回答を待って事を行います。」
膠西王は肉袒(上半身を裸にすること)叩頭して漢軍の営壁を訪ね、韓頽当に会ってこう言いました「臣卬は法を奉じながら謹まなかったため、百姓を驚駭させ、将軍に労苦をもたらして遠道を経て窮国に至らせることになってしまいました。敢えて菹醢の罪((死刑の後、肉醤にされる酷刑)を請います。」
韓頽当は金鼓(兵権を表します)を持って膠西王を接見し、「王は軍の事で辛苦されました。王が兵を発した状況を聞かせてください」と言いました。
膠西王は頓首しながら膝で前に進み、こう言いました「最近、鼂錯が天子の用事の臣(政権を握る臣)となり、高皇帝の法令を変更して諸侯の地を侵奪しました。卬(私)等はこれを不義とみなし、天下が敗乱することを恐れたので、七国が兵を発して鼂錯を誅殺しようとしました。今、鼂錯が既に誅されたと聞いたので、卬等は謹んで既に兵を解き、引き返しました。」
韓頽当が言いました「王が鼂錯を不善としたのなら、なぜ報告しなかったのですか。詔も虎符もないのに勝手に兵を発して義国(朝廷に対して忠勤な国)を撃ったのはなぜですか。これらを観ると、王の意は鼂錯誅殺を欲しただけではないのではありませんか。」
韓頽当は詔書を出して膠西王に向かって宣読し、「王は自ら図れ」と命じました。
膠西王は「卬等のような者は死んでも罪に余りあります」と言って自殺しました。太后も太子も死にます。
 
膠東王劉雄渠、菑川王劉賢、済南王劉辟光は誅に伏しました(処刑されました)
 
酈将軍(酈寄)の兵(朝廷軍)が趙に入りました。
趙王劉遂は兵を返して邯鄲城(趙都)を守ります。
酈寄が城を攻めましたが、七カ月経っても攻略できません。
趙は匈奴に援軍を求めましたが、匈奴は呉楚が破れたと聞いて国境を越えませんでした。
やがて欒布が斉を破って兵を還し、酈寄軍と合流しました。水を引いて趙城(邯鄲城)を満たします。
城壁が崩れたため、趙王劉遂は自殺しました。
 
景帝は「斉王(劉将渠。孝王)には元々謀反の意思がなく、形勢が逼迫したためやむなく反乱に加わろうとしたのだから無罪だ」と考えました。
そこで改めて斉王を立てることにし、劉将渠の太子劉寿を招いて封王しました。これを懿王といいます。
 
済北王劉志(膠西王等の兄弟)は郎中令に止められて挙兵できずにいました。七国が破れると済北王も自殺して妻子を守ろうとします。
それを知った斉人公孫玃が済北王に言いました「試しに臣を梁に派遣し、大王のために梁王に説明させてください。梁王を通して天子に意志を伝えます。説明して用いられなかったら、それから死んでも晩くありません。」
公孫玃は梁王劉武に会ってこう言いました「済北の地は、東は強斉に接し、南は呉越に繋がり、北は燕趙の脅威を受けており、四分五裂の国(四方に強国があるためいつでも分裂する恐れがある国)です。(済北王の)(権謀)は自守するに足りず、勁(強さ)は捍寇(敵を防ぐこと)するに足りず、また奇怪云(奇怪神霊の事)があって難を待っているわけでもありません(苦難に対して神霊の助けがあるわけでもありません)。たとえ呉の事で失言があったとしても、それは正計(本意)ではないのです。もし済北王が実の情を見せて(朝廷への忠誠を見せて)(呉王に)従わない形跡を示したら、呉は必ず真っ先に斉を通って済北を占領し、燕趙を招いてこれらの国をまとめたでしょう。こうなったら山東の従(合従。連合)が結ばれて隙がなくなってしまいます。
最近、呉王が諸侯の兵を連ね、白徒の衆(訓練を受けていない徒衆)を駆けさせ、西に向かって天子と争衡(地位を争うこと)しましたが、済北王だけは底節(節を磨くこと。節を守ること)して降らず、呉の與(同盟国)を失わせて助けをなくし、跬歩独進(困難な中、単独でゆっくり進むこと。「跬歩」は「半歩」の意味)させました。その結果、呉は瓦解土崩し、敗れても救う者がいなかったのです。これが済北王の力(功績)ではないとは言えないでしょう。区区とした(小さい)済北が諸侯と強を争うのは、弱い羔犢(「羔」は小羊。「犢」は小牛)が虎狼の敵に対抗するのと同じです。職を守って屈しなかったのは誠一といえます。このような功義(功績と道義)があるのに、まだ上(陛下)に疑われているため、脅肩低首(肩をそばだてて頭を低くすること)、累足撫衿(「累足」は足を重ねて踏み出せないこと。恐れている様子。「撫衿」は襟を撫でること。嘆息する様子)しており、当初、呉王と共に兵を進めなかったことを後悔する心を持たせています。これでは社稷の利になりません。臣は職責を守っている藩臣が猜疑するのではないかと心配しています。
臣が秘かに量るに、西山(殽山から華山)を越えて長楽(長楽宮。太后がいます)に達し、未央(未央宮。皇帝がいます)に至り、攘袂(袖をめくること。憤慨した様子)して正道を議すことができるのは、大王しかいません。(大王が陛下を説得すれば)上には全亡の功(滅亡に瀕した済北国を保全するという功績)ができ、下には百姓を安んじた名(美名)ができ、徳は骨髓に及び、恩は(子々孫々)無窮に加えられます。大王が留意熟考することを願います。」
梁王は喜んで京師に人を駆けさせ、景帝に報告しました。
済北王劉志は罪を問われず、菑川王に遷されました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
河間王劉徳(景帝の子)の太傅衛綰が呉楚を撃って功を立てたため、中尉に任命されました。
 
かつて衛綰は中郎将として文帝に仕え、醇謹(寛厚慎重)以外には雑念がありませんでした。
景帝が太子だった頃、文帝の左右の者を酒宴に誘ったことがありましたが、衛綰は病と称して行きませんでした。
史記・万石張叔列伝(巻百三)』の注(集解)によると、文帝に二心を疑われることを恐れたからのようです。  
文帝は死ぬ前に太子(景帝)にこう言いました「綰は長者である。善く遇せ。」
そのため景帝も衛綰を寵任しました。
 
[十二] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏六月乙亥(二十五日)、景帝が詔を発しました「過日、呉王濞等が逆を為し、兵を起こして互いに脅かし、吏民を詿誤(巻込んで過ちを犯させること)したため、吏民はやむを得なかった(やむなく従った)。今、濞等は既に滅んだので、吏民で濞等の罪に坐すべき者および逋逃亡軍の者(従軍してから逃走した者)を全て赦す。楚元王の子(詳細は不明です)等が濞等と逆を為したが、朕は法を加えるのが忍びないので、その籍を除き(皇族から除名し)、宗室を汚させないようにする。」
 
景帝は呉王劉濞の弟(徳哀侯劉広)の子に当たる劉通に呉を継がせ、楚元王劉交の子に当たる劉礼に楚を継がせようとしました。
劉通に関しては既に述べました。
劉礼は『史記漢興以来諸侯王年表』と『漢書諸侯王表』によるとこの時、平陸侯です。
 
太后が言いました「呉王は老人であり、宗室のために善に順じるべきでした。しかし今回、呉王は筆頭に立って七国を統率し、天下を紛乱させました。なぜ後代に継がせる必要があるのですか。」
太后は呉王の子孫を王に立てることに同意しませんでしたが、楚王の後を立てることは許可しました。
 
乙亥(二十五日。上述の詔と同日)、淮陽王劉餘を魯王に、汝南王劉非を江都王に遷しました。どちらも元は呉の地で、『史記正義』によると江都は呉国の都でした。劉餘、劉非とも景帝の子です。
また、宗正劉礼(平陸侯。楚元王の子)を楚王に立てて元王の後を継がせました。
更に皇子(景帝の子)劉端を膠西王に、劉勝を中山王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、中山の都は盧奴です。
 
漢書帝紀』によると、民に爵一級を下賜しました。
 
[十三]史記孝景本紀』からです。
大将軍竇嬰を魏其侯に封じました。
 
史記恵景間侯者年表』と『漢書外戚恩沢侯表』を見ると「六月乙巳」の事となっていますが、乙亥が二十五日なので六月に乙巳の日はないはずです。
 
[十四] 『史記孝景本紀』はこの年に「燕王嘉が死んだ」と書いています。
しかし『史記漢興以来諸侯王年表』漢書諸侯王表』では景帝前五年(前152年)に死に、翌年が燕王劉定国元年になっています(再述します)
劉嘉は諡号を康王といい、敬王劉澤の子です。劉澤は高帝の親族です。
 
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代71 景帝(九) 劉長の諸子 前153~152年