西漢時代71 景帝(九) 劉長の諸子 前153~152年

今回は西漢景帝前四年と五年です。
 
西漢景帝前四年
戊子 前153
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
春、再び津(津は水路、関は陸路の関所)を置き、関を出入りするには伝(信。通行証)が必要になりました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、西漢文帝前十二年(前168年)に関も伝も廃止されましたが、七国の乱が起きたため、非常事態に備えるために関と伝の制度を元に戻して治安の強化を図ったようです。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
夏四月己巳(二十三日)、景帝が子の劉栄を皇太子に立て、劉徹を膠東王に立てました。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
六月甲戌、天下に大赦しました。
 
漢書帝紀』によると、大赦後、民に爵一級を下賜しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月、臨江王(景帝の子)が死にました。
史記五宗世家』によると、劉閼には子がいなかったため、臨江国は廃されて郡になりました。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
後九月、弋陽(または「易陽」)を陽陵に改めました。陽陵は景帝陵です。
 
[] 『史記孝景本紀』はこの年最後に「冬、趙国を邯鄲郡にした」と書いていますが、『漢書地理志下』では前年の事としています
趙は前年の呉楚七国の乱に加わり、趙王劉遂が自殺したため廃されて郡になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月戊戌晦(中華書局『白話資治通鑑』は「戊戌晦」を恐らく誤りとしています)、日食がありました。
 
これは『漢書帝紀』と『資治通鑑』の記述で、『史記孝景本紀』にはありません。
当時は十月が歳首なので、年の終わりにこの記述をしているのは恐らく誤りです。
漢書五行志(巻二十七下之下)』を見ると、景帝三年二月壬午晦と七年十一月庚寅晦には日食の記述がありますが、本年(景帝前四年)には日食について書かれていません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楚七国が挙兵した時、呉の使者が淮南国に至りました。誘いを受けた淮南王劉安も兵を発して応じようとします。
劉安は文帝の時代に王位を廃されて自殺した劉長(高帝の子。文帝の弟)の子です。
 
淮南の相が言いました「王が必ず呉に呼応しようというのなら、臣を将に任命してください。」
淮南王は軍権を相に属させました。
相は兵を指揮すると城の守りを固め、淮南王の命を無視して漢(朝廷)のために働きました。
漢も曲城侯に兵を率いさせて淮南を援けたため、淮南国は安全を保つことができました。
 
「曲城侯」というのは『資治通鑑』の記述で、『漢書高恵高后文功臣表』では、「曲成侯」と書かれています。しかし同じ『漢書』でも『淮南衡山済北王伝(巻四十四)』では「曲城侯」です。
高帝時代の功臣蟲達が高帝六年(201)三月庚子に曲城侯に封じられました。諡号は圉侯です。
文帝の時代に子の蟲捷が継ぎ、罪を犯して一時廃されましたが、数年後に再び封侯されました。呉楚七国が挙兵した時は蟲捷の時代に当たります。諡号は分かりません。
尚、『史記淮南衡山列伝(巻百十八)』の注(集解)は「曲城侯の姓は蟲、名は捷。その父は名を逢といい、高祖の功臣だった」と書いており、『史記高祖功臣侯者年表』も蟲捷の父の名を「蟲逢」としています。
 
呉の使者は廬江国と衡山国にも入りました。
しかし廬江王劉賜は誘いに応じず、越との間で使者を往復させました。
衡山王劉勃も二心を抱くことなく城を堅守しました。
劉賜と劉勃も劉長の子です。
 
楚が破れてから衡山王が入朝しました。
景帝は衡山王の貞信(忠貞)を認め、慰問して「南方は卑湿(地形が低くて湿気が多い)であろう」と言いました。劉勃に対する褒賞として済北王に遷します。
劉勃は翌年に死に、貞王という諡号を贈られます。
 
廬江王は越と辺境を接しており、頻繁に使者を送って関係を結んでいました。
景帝は廬江王を衡山王に遷して江北を治めさせました。『資治通鑑』胡三省注によると、衡山王の都は六(地名)です。
 
 
 
西漢景帝前五年
己丑 前152
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、陽陵邑を造りました。
陽陵は景帝の陵墓で、長安の東北に位置します。
夏、民を募って陽陵に移し、銭二十万を下賜しました。
 
史記孝景本紀』では三月に陽陵と渭橋を造ったとしています。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
江都で大暴風が西方から吹き、城壁が十二丈崩れました。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
五月丁卯、長公主(景帝の姉)の子陳蟜を隆慮侯に封じました。父は陳午といいます。
 
史記・恵景間侯者年表』は景帝中五年の事としていますが、『集解』が「中五年は誤り」と注釈しています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
景帝が公主を匈奴単于(軍臣単于に嫁がせました。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
広川王彭祖(景帝の子)を趙王に遷しました。
 
趙は呉楚七国の乱に加わったため廃されて邯鄲郡になっていました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
済北王劉勃貞王。前年参照)が死にました。
漢書淮南衡山済北王伝(巻四十四)』によると、劉勃を継いで子の式王胡が立ちました。
劉胡の諡号を『史記漢興以来諸侯王年表』は「武王劉胡」、『漢書諸侯王表』は「成王劉胡」としています。
 
[] 『史記漢興以来諸侯王年表』『漢書諸侯王表』によると、この年、燕王劉嘉(康王)が死にました(景帝前三年154年にも書きました)
子の劉定国が継ぎました。劉定国の代で国が廃されるため諡号はありません。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代72 景帝(十) 皇太子廃立 前151年