西漢時代71 景帝(九) 劉長の諸子 前153~152年
今回は西漢景帝前四年と五年です。
西漢景帝前四年
戊子 前153年
春、再び津・関(津は水路、関は陸路の関所)を置き、関を出入りするには伝(信。通行証)が必要になりました。
夏四月己巳(二十三日)、景帝が子の劉栄を皇太子に立て、劉徹を膠東王に立てました。
六月甲戌、天下に大赦しました。
秋七月、臨江王・劉閼(景帝の子)が死にました。
後九月、弋陽(または「易陽」)を陽陵に改めました。陽陵は景帝陵です。
趙は前年の呉楚七国の乱に加わり、趙王・劉遂が自殺したため廃されて郡になりました。
当時は十月が歳首なので、年の終わりにこの記述をしているのは恐らく誤りです。
呉・楚七国が挙兵した時、呉の使者が淮南国に至りました。誘いを受けた淮南王・劉安も兵を発して応じようとします。
劉安は文帝の時代に王位を廃されて自殺した劉長(高帝の子。文帝の弟)の子です。
淮南の相が言いました「王が必ず呉に呼応しようというのなら、臣を将に任命してください。」
淮南王は軍権を相に属させました。
相は兵を指揮すると城の守りを固め、淮南王の命を無視して漢(朝廷)のために働きました。
漢も曲城侯に兵を率いさせて淮南を援けたため、淮南国は安全を保つことができました。
文帝の時代に子の蟲捷が継ぎ、罪を犯して一時廃されましたが、数年後に再び封侯されました。呉楚七国が挙兵した時は蟲捷の時代に当たります。諡号は分かりません。
呉の使者は廬江国と衡山国にも入りました。
しかし廬江王・劉賜は誘いに応じず、越との間で使者を往復させました。
衡山王・劉勃も二心を抱くことなく城を堅守しました。
劉賜と劉勃も劉長の子です。
呉・楚が破れてから衡山王が入朝しました。
景帝は衡山王の貞信(忠貞)を認め、慰問して「南方は卑湿(地形が低くて湿気が多い)であろう」と言いました。劉勃に対する褒賞として済北王に遷します。
劉勃は翌年に死に、貞王という諡号を贈られます。
廬江王は越と辺境を接しており、頻繁に使者を送って関係を結んでいました。
西漢景帝前五年
己丑 前152年
春正月、陽陵邑を造りました。
陽陵は景帝の陵墓で、長安の東北に位置します。
夏、民を募って陽陵に移し、銭二十万を下賜しました。
江都で大暴風が西方から吹き、城壁が十二丈崩れました。
五月丁卯、長公主(景帝の姉)の子・陳蟜を隆慮侯に封じました。父は陳午といいます。
『史記・恵景間侯者年表』は景帝中五年の事としていますが、『集解』が「中五年は誤り」と注釈しています。
広川王・劉彭祖(景帝の子)を趙王に遷しました。
趙は呉楚七国の乱に加わったため廃されて邯鄲郡になっていました。
済北王・劉勃(貞王。前年参照)が死にました。
子の劉定国が継ぎました。劉定国の代で国が廃されるため諡号はありません。
次回に続きます。