西漢時代72 景帝(十) 皇太子廃立 前151年

今回は西漢景帝前六年です。
 
西漢景帝前六年
庚寅 前151
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十二月、雷が落ちて霖雨が降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、三日以上の雨を「霖」といいます。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
春、中尉綰を建陵侯に、江都丞相嘉を建平侯に、隴西太守渾邪を平曲侯に、趙丞相嘉を江陵侯に、元将軍布を侯に封じました。
 
以下、『史記恵景間侯者年表』から補足します。
中尉綰は衛綰です。呉楚の乱で功を立てたため、四月丁卯に建陵侯に封じられました。諡号は敬侯です(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「哀侯」です)
江都丞相嘉は程嘉といい、呉楚の乱で功を立てたため、四月丁卯に建平侯に封じられました。諡号は哀侯です(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「敬侯」です)
隴西太守渾邪は公孫渾邪(「渾邪」は『史記・孝景本紀』の記述で、『史記恵景間侯者年表』では「昆邪」)といい、呉楚の乱で功を立てたため、四月己巳に平曲侯に封じられました。後に罪を犯して廃されるため、諡号はありません。
趙丞相嘉は蘇嘉(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「蘇息」)といい、呉楚の乱で功を立てたため、四月壬申に江陵侯(「江陵侯」は『史記・孝景本紀』の記述で、『史記』と『漢書』の表では「江陽侯」)に立てられました。諡号は康侯です。
元将軍布は欒布です。高帝時代からの功臣で、呉楚の乱でも功を立てたため、四月丁卯に(『史記』と『漢書』の表と『史記季布乱布列伝(巻百)』では「兪侯」。『漢書季布欒布田叔伝(巻三十七)』は『史記・孝景本紀』と同じで「侯」)に封じられました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
景帝が太子だった頃、薄太后(文帝の母。景帝の祖母)が薄氏の女性を太子の妃にしました。
景帝が即位すると薄氏が皇后になりました。しかし薄皇后は寵愛を受けることがなく、景帝前二年(前155年)には薄太后も死にました。
 
秋九月、皇后薄氏を廃しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楚王劉礼文王。楚元王劉交の子)が死にました。
史記楚元王世家』によると、劉礼の子劉道が跡を継ぎました。安王といいます。
 
史記孝景本紀』はこの年に「梁楚二王が死んだ」と書いていますが、梁王劉武が死ぬのは中六年(本年は前六年)の事です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、燕王臧荼に臧児という孫娘がいました。臧荼は西漢高帝五年(前202年)に反して匈奴と結んだ人物です。
 
臧児は槐里の王仲という男に嫁ぎました。
資治通鑑』胡三省注によると、槐里県は秦代の廃丘で、高帝が改名しました。
 
臧児は男児信と二人の娘を生みましたが、王仲が死んだため、長陵の田氏と再婚しました。
田氏との間にも二人の男児が生まれます。田蚡と田勝です。
 
文帝の時代、臧児の長女(王仲の娘)が金王孫という男に嫁ぎ、俗(金俗)という娘を生みました。
ところが、臧児が卜筮をした結果、「二人の娘はどちらも尊貴になる」と言われたため、臧児は金氏から長女を奪い返しました。金氏は怒って別れようとしませんでしたが、臧児は娘を太子宮に入れてしまいます。当時の太子は劉啓(景帝)で、太子に嫁いだ臧児の娘は王夫人とよばれます。
やがて王夫人が男児を生み、徹と名づけられました。
王夫人は劉徹を妊娠している時、太陽が懐に入る夢を見ました。劉徹は後に西漢武帝になります。
 
景帝が即位してから長男の劉栄が太子に立てられました西漢景帝前四年153年)
劉栄の母は栗姫といい、斉人です。
 
長公主劉嫖(文帝の娘、景帝の姉)が自分の娘を皇太子・劉栄に嫁がせようとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、長公主の夫は堂邑侯陳午です。息子の陳蟜は隆慮侯に封じられました(景帝前五年・前152年参照)
 
長公主は後宮において大きな影響力を持っており、景帝の諸美人は全て長公主が景帝に推薦していました。
栗姫は景帝に美人を紹介している長公主を怨んでいたため、皇太子と長公主の娘の婚姻を断ります。
そこで長公主は王夫人の子劉徹に娘を嫁がせることにしました。王夫人が同意したため長公主は日々栗姫を讒言して王夫人の美を褒め称えるようになります。
景帝自身も王夫人の賢才を認めており、しかも妊娠中に太陽が懐に入ったという夢も知っていたため、劉徹が皇太子に立てば夢に符合すると考えましたが、皇太子廃立について決心できずにいました。
 
一方の栗姫は景帝の意にそわない態度を見せたため、自ら寵を失ってしまいました。『史記外戚世家』からです。
ある時、景帝が体調を壊して気持ちもすぐれなくなったため、封王された諸子を栗姫に託してこう言いました「百歳の後崩御したら)、善く視てくれ(諸王の面倒を頼む)。」
本来は栗姫を皇后に立てるという意味が込められています。
しかし栗姫には自分以外の妃妾が生んだ子の世話をする気などありません。栗姫は逆に怒って景帝の願いを拒絶し、しかも不遜な言葉を口にしました。
景帝は栗姫を憎みましたが、それを表には出しませんでした。
 
王夫人は景帝が栗姫を嫌っていると知りました。
そこで、王夫人は景帝の怒りが解ける前に秘かに大行(または「行人」。官名)へ人を送り、栗姫を皇后に立てるように請わせました。
大行が景帝に進言すると、景帝は怒って「これは汝が言うべきことか!」と言い、大行の罪を探して誅殺してしまいました。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
後九月(閏九月)、馳道の左右に植えられた樹木を斬り、蘭池(秦代に造られた池)を埋めました。
 
 
 
次回に続きます。