西漢時代75 景帝(十三) 梁王事件 前148年(2)

今回は西漢景帝中二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
梁王劉武(孝王)は景帝との関係が近く(劉武は景帝の弟で竇太后の少子です)、呉楚七国の乱でも梁国を守って功を立てたため、天子の旌旗を下賜され、外出したら千乗万騎が随行して蹕警が設けられるようになりました。蹕警というのは天子が巡行する時の警護です。道を清めて臣民の通行を規制しました。
 
梁王は羊勝と公孫詭を寵信しました。公孫詭が中尉に任命されます。二人は奇邪の計が豊富で、梁王が漢嗣(皇帝の後継者)になることを欲していました。
 
栗太子(劉栄。栗姫の子なので栗太子といいます)が廃された時、竇太后には梁王を後嗣に立てる意思がありました。そこで酒宴を開いた機会を利用して景帝にこう言いました「安車大駕は梁王を用いて寄としなさい。」
資治通鑑』は『史記梁孝王世家』から竇太后の言葉の後半だけを引用しているため、この言葉の理解が困難です。『史記』にはこう書かれています。
太后が帝に言いました「私が聞いたところ、殷の道は『親親』、周の道は『尊尊』とされましたが、その義(道理)は一つです。安車大駕は梁孝王(孝王は諡号なので「梁王」の誤り)を用いて寄としなさい。」
「親親」は「親属と親しむ」という意味でが、ここでは特に「兄弟と親しむ」という意味になります。殷商王朝は兄が死んだら弟が跡を継ぎました。
「尊尊」は「尊ぶべき者を尊ぶ」という意味で、ここでは「祖先を尊ぶ」という意味になります。周王朝は祖父、父の血統を重んじて子に跡を継がせました。
「安車」は貴人が乗る小車で、太后も「安車」を使いました。「大駕」は皇帝の車です。ここでは両方合わせて「太后と皇帝」の意味になります。
「寄」は「頼りにする」「委託する」という意味なので、「梁王に安車大駕太后と皇帝の車。実際は太后と皇帝の本人を指します)を託しなさい」となります。
太后は暗に「梁王を後継者にしなさい」と諭しました。
 
これに対して景帝は席に跪いたまま体を起こして「わかりました(諾)」と答えましたが、酒宴が終わってから、諸大臣に意見を求めました。
大臣袁盎等が言いました「いけません。昔、宋の国で宣公が子を立てずに弟を立てたため、禍乱を生んで五世を経ても絶えませんでした春秋時代の故事です)。小(小さい事。私心)を忍ばなかったら大義を害すことになります。だから『春秋(公羊伝)』は居正(正道が守られていること)を尊重したのです(原文「大居正」。「大」は尊重するという意味です)。」
こうして太后の意見は阻止され、この後、語られることがなくなりました。
 
かつて梁王が上書しました「容車の地(車が通れる道)を賜ることを願います。長楽宮(竇太后がいます)に直接繋げ、自ら梁国の士衆に甬道を築かせて太后に朝見します。」
袁盎等諸大臣は景帝に却下するように建議しました。
 
このような事があったため、梁王は袁盎や議臣を怨むようになりました。羊勝、公孫詭と謀って秘かに人を派遣し、袁盎および他の議臣十余人を刺殺してしまいます。
 
(犯人。刺客)が捕まらないため、景帝は梁王の仕業だと疑いました。やがて実際に賊を逮捕して追及すると、梁王が為したことが明らかになりました。
景帝は田叔と呂季主を派遣して梁国が犯した事件を調査し、公孫詭と羊勝を逮捕させました。
しかし公孫詭と羊勝は梁王の後宮に隠れたため、見つけることができません。
朝廷は十余回も使者を梁に送って二千石の官員を厳しく問い詰めました。梁相軒丘豹、内史韓安国以下の官員が梁国を挙げて大捜索しましたが、やはり一月余経っても二人を逮捕できません。
資治通鑑』胡三省注によると、軒丘豹は軒丘が氏です。楚文王の庶子が軒丘を食采にしたため、後代が軒丘を氏にしました。
 
やがて韓安国が公孫詭と羊勝の居場所を知りました。梁王が匿っていると聞いた韓安国は、王宮に入って梁王に会い、泣いてこう言いました「主が辱しめられたら臣が死ぬものです。大王は良臣がいなかったため、このような混乱に陥ってしまいました(紛紛至此)。今、羊勝と公孫詭を得られないようなら、辞職して死を請います。」
梁王が問いました「なぜそこまでする必要があるのだ!」
韓安国が涙を流しながら問いました「大王が皇帝について考えるに、臨江王(劉栄。景帝の子)と較べてどちらが親しい関係ですか?」
梁王が言いました「(わしは臨江王に)及ばない(弗如也)。」
韓安国が言いました「臨江王は適長(嫡長)の太子でしたが、一言の過ちで廃されて臨江の王にされ、宮垣の事(太廟の壁の事件)が原因でついに中尉府で自殺しました。これはなぜでしょうか?天下を治めるに当たっては、私(私事。私情)を用いて公を乱すことがないからです。今、大王は諸侯に列していますが、邪臣の浮説(虚言。不誠実な言葉)に誘われ、上の禁(皇帝の禁令)を犯し、明法を曲げています。天子は太后がいるため大王に法を及ぼすことが忍びず、太后は日夜涕泣して大王の自改を願っているのに、大王はいつまでも覚寤できません(目が覚めません)。もし太后の宮車が晏駕したら太后が死んだら)、大王は誰に頼れるのですか?」
韓安国が言い終わる前に梁王も涙を流し始めました。韓安国に謝罪して「わしは今すぐ勝と詭を引き渡そう」と言うと、羊勝と公孫詭に自殺を命じて死体を渡しました。
 
この事件があってから景帝は梁王を憎むようになりました。
 
梁王は景帝を恐れて鄒陽を長安に派遣し、王皇后の兄王信にこう伝えました「長君(あなた。「長君」は他者の兄に対する尊称ですが、『漢書・賈鄒枚路伝(巻五十一)』には「王長君は王美人の兄で、後に蓋侯に封じられる」とあるので、王信の字のようにも思えます)の弟(女弟。妹の意味です)は上(陛下)の幸を得ており、後宮に及ぶ者はいません。しかし長君の行迹(行動)は多くが道理を遵守していません。今、袁盎の事が究明されて梁王が誅に伏したら、太后は怒りを発する場所がなく、貴臣に対して切歯側目(「切歯」は歯ぎしり、「側目」は横目で見ること。どちらも憤懣の様子です)するでしょう(竇太后は問題が多いあなたに怒りをぶつけるでしょう)。私は足下に代わって憂いています。」
長君(王信)が問いました「それではどうするべきだ?」
鄒陽が言いました「長君が上(陛下)のためにうまく進言し、梁の事を究明しないようにできれば、長君は必ず太后と固く結ばれ、太后は骨髓に達するまで長君を厚く徳とするでしょう(感謝するでしょう)。また、長君の弟(妹)が両宮太后宮と帝宮)の寵幸を得られれば、(栄寵が)金城のように牢固となります。昔、舜の弟象は毎日、舜を殺す方法を考えていましたが、舜が天子に立ってからは(弟を)有卑(地名)に封じました。仁人が兄弟に対する態度は、怒を隠し持つことなく、怨を宿すことなく、厚く親しんで愛すだけです。だから後生に称賛されるのです。この話を天子にすれば、うまくすれば梁の事が上奏されなくなるでしょう(梁の事件が追及されなくなるので、群臣も報告しなくなるでしょう)。」
長君は「わかった(諾)」と答えました。
やがて、王信が機会を見つけて景帝に進言したため、景帝はわずかに怒りを解きました。
 
当時、竇太后は梁王の事が心配で食事もせず、日夜泣いていました。景帝は竇太后を心配しています。
梁国を調査した田叔等が帰りましたが、霸昌厩長安東)に着いた時、火を起こして梁の獄辞を全て焼き捨てました。田叔等は何も持たずに景帝に報告します。
景帝が問いました「梁の事は事実か?」
田叔が答えました「死罪に当たります。事実です。」
景帝が問いました「罪を証明するものはどこにある?」
田叔が答えました「上(陛下)は梁の事を問うべきではありません。」
景帝が「なぜだ?」と問うと、田叔はこう言いました「今回、梁王が誅に伏さなかったら、漢の法が行われないことになります。しかし法に伏したら、太后は食事をしても甘味(美味)を感じず(食不甘味)、臥せても寝床で安らげず(臥不安席)、陛下の憂患となります。」
景帝は大いに納得し、田叔等に竇太后を謁見させてこう伝えました「梁王は何も知りませんでした。事を起こしたのは幸臣の羊勝、公孫詭といった者達だけで、彼等は既に誅に伏して死にました。梁王は無恙です(変わりがありません)。」
報告を聞いた竇太后は元気を取り戻し、すぐ起き上がって食事を始めました。
 
暫くして梁王が朝見を請う上書をしました。
函谷関に至った時、茅蘭が梁王に進言したため、梁王は布車(幕を張った車。普通の車)に乗り、二人の騎士だけを連れて入関してから、長公主(館陶長公主劉嫖。景帝と梁王の姉)の園に隠れました。
漢の使者が梁王を迎えに来ましたが、梁王は既に入関しており、随行の車騎が外に残されているだけでした。梁王の行方はわかりません。
太后が泣いて言いました「やはり帝が我が子を殺した!」
景帝は憂い恐れます。
すると梁王が闕下に現れて、斧質(刑具)に伏せて謝罪しました。
太后と景帝は大いに喜び、三人で互いに泣いて以前の情を取り戻しました。関外で待機していた梁王の従官が全て招かれて入関します。
しかし景帝はこの後、梁王を遠ざけるようになり、車輦を共にすることもなくなりました。
 
景帝は田叔の賢才を認めて魯相に抜擢しました。当時の魯王は景帝の子劉餘です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代76 景帝(十四) 周亜夫失脚 前147年