西漢時代77 景帝(十五) 法令の詔 前146~145年

今回は西漢景帝中四年から中五年です。
 
西漢景帝中四年
乙未 前146
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀からです。
春三月、徳陽宮を建てました。
史記集解』によると、徳陽宮は景帝の廟です。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
御史大夫綰が上奏し、背の高さが五尺九寸以上で十歳に達していない壮健な馬(原文「歯未平」。『漢書』の注によると、馬は十歳になると歯が落ちて平らになるとされていたようです)は関を出ることを禁止しました。
関東に良馬が流出するのを防ぐためです。
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
夏、大蝗害がありました。
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀』からです、
秋、陽陵(景帝陵)建造に従事した徒(囚人)を赦免しました。
また死罪を犯した者でも腐刑宮刑を望む者は許可しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』は冬十月戊午(二十六日)に日食があったと書いています。
しかし十月は歳首なので翌年になるはずです。『史記』には記述がありません。
漢書五行志下之下』を見ると、中三年九月戊戌晦と中六年七月辛亥晦に日食の記述がありますが、本年(中四年)には書かれていません。
 
 
 
西漢景帝中五年
丙申 前145
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
夏、景帝が皇子劉舜を常山王に立てました。
資治通鑑』によると、高帝が常山郡(当時は恒山郡です。文帝の名が「劉恒」だったため、「恒」を避けて「常山」に改名されました)を置いて趙国に属させましたが、後に呂后が趙国から分けて王国にしました西漢少帝元年187年。)
文帝が即位してから常山国(恒山国)は廃されましたが西漢少帝八年180年)、今回また劉舜が封王されました。
 
[] 『史記孝景本紀』に十侯を封じたとあります。
しかし『史記恵景間侯者年表』を見ると、本年に封じられたのは五人しかいません。以下、列挙します。
四月丁巳、盧他父(『史記孝景本紀正義』では「盧他之」。『漢書景武昭宣元成功臣表』では「盧它之」)が亜谷侯に封じられました。盧他父は盧綰の子で、諡号は簡侯です。
五月丁丑、陳蟜を隆盧侯に封じました。陳蟜は長公主劉嫖(景帝の姉)の子で、父は陳午といいます。但し『集解』は前五年の誤りとしています(景帝前五年152年参照)武帝の時代に罪を犯して自殺するため、諡号はありません。
五月丁卯、劉買を乗氏侯に封じました。梁孝王劉武の子です。翌年、父を継いで梁王になり、乗氏侯国は廃されます。
五月丁卯、劉明を桓邑侯に封じました。梁孝王劉武の子です。翌年、済川王に封じられ、桓邑侯国は廃されます。
五月甲戌、王信を蓋侯に封じました。王信は景帝の皇后王氏の兄で、諡号を靖侯といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
六月丁巳(二十九日)、天下に大赦しました。
 
史記孝景本紀』と『漢書帝紀によると、大赦の後、爵一級を下賜しました。
 
[] 『史記孝景本紀』と資治通鑑』からです。
大水(洪水)がありました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋八月己酉(二十二日)、未央宮東闕で火災がありました。
 
[] 『史記孝景本紀』と『漢書帝紀』からです。
諸侯の丞相を相に改名しました。
中央と諸侯王が同格ではないことを明らかにするための措置です西漢景帝中三年147年参照)
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、景帝が詔を発しました「法令、度量(法度)とは暴を禁じて邪を止めるためにある。獄とは人の大命(命にかかわる重要な事)であり、死者は復生(蘇生)できない。ところが、ある吏(官吏)は法令を奉じず、貨賂を市(利益)とし、結託して朋党を作り(朋党比周)、苛(苛酷)を察(明察。精明)とし(以苛為察)、刻(残刻)を明とし(以刻為明)、罪がない者に職を失わせているので(官吏によっては賄賂を受けて法を曲げ、徒党を組み、苛酷な刑を用いることを手柄だと思って無罪の者からも生業を奪っているので)、朕はこれを深く憐れむ。罪がある者が罪(刑)に伏さず、法を悪用して暴虐をなすようでは(姦法為暴)、全く意味がない(甚亡謂也)。全ての疑獄において(諸獄疑)、たとえ文(法律)に基づいたら法(刑)を為す必要があるとしても、人心が服していない場合は全て讞せよ(「讞」は平議、公平に裁くこと。または上に報告して指示を仰ぐこと。ここでは再審の意味)。」
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
地震がありました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代78 景帝(十六) 李広 前144年