西漢時代79 景帝(十七) 周亜夫の死 前143年

今回は西漢景帝後元年です。
 
西漢景帝後元年
戊戌 前143
 
この年、景帝が改元しました。本年を「後元年」、または「後元元年」といいます。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
冬、中大夫を衛尉に改名しました。
 
史記正義』によると、衛尉は秦代に置かれた官で、宮門の護衛を掌ります。景帝時代初期に中大夫に改名されましたが、今回、衛尉に戻されました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、景帝が裁判に関する詔を発しました「獄は重事(国家の大事)である。人には智愚(能力の差)があり、官には上下がある。獄(判決)に疑いがあるものは有司(関係する官員)に讞し(指示を仰ぎ。「讞」は下の者が上に報告して指示を仰ぐこと)、有司が解決できなければ廷尉に移せ。讞してから(官員の判決が)適切でなくても、讞した者に失(過失)はない(上に報告して上が誤った判決を下したとしても、報告した者に罪はない)。獄を治める者がまずは寛大に務めるようにさせたい。」
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
三月丁酉、天下に大赦しました。
その後、民に爵一級を下賜し、中二千石の官員と諸侯の相の爵位を右庶長にしました。
漢書』の注によると、官位が髙くても爵位が低い者がいたため、中二千石と諸侯の相の爵位を上げさせました。右庶長は第十二爵に当たります。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
夏四月、五日間の大酺を行い、民の酤酒(酒の売買)を許可しました。
西漢景帝中三年(前147年)に酤酒を禁じる令が出されていました。
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
五月丙戌(初九日。『史記集解』によると一説では「甲戌」)地震があり、朝食の時間帯にも揺れました。
上庸の地震は二十二日続き、城垣(城壁)が崩れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月丙午(三十日)、丞相劉舍を罷免しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
乙巳晦、日食がありました。
 
これは『漢書帝紀』の「秋七月乙巳晦、日有蝕之」が元になっています。「晦」は月の最後の日なので、「七月末日に日食があった」という意味になります。
しかし『資治通鑑』はこの前に「秋七月丙午(三十日)、丞相劉舍を罷免した」と書いています。「七月丙午」は『漢書百官公卿表下』が元になっています。
「乙巳」は「丙午」の前日なので、「乙巳晦」は誤りで「丙午」が「晦」になります。
 
漢書五行志下之下』では「後元年七月乙巳、晦の一日前に日食があった」と書かれています。
史記孝景本紀』でも「七月乙巳、日食。丞相劉舍を罷免した」としており、日食が起きてから劉舎が罷免されています。但し、劉舎が罷免された日は明確にされていません。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
八月壬辰(中華書局『白話資治通鑑』は「壬辰」を恐らく誤りとしています)御史大夫衛綰を丞相に任命し、建陵侯に封じました。
 
また、衛尉で南陽の人直不疑を御史大夫に任命しました。
直不疑は直が姓氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋戦国時代の楚国に直弓(直躬)という者がいました。
 
直不疑が郎だった頃、同舍の者が休暇をとって帰郷したことがありました(「告帰」といいます)。その時、誤って他の同舍の郎の金(黄金)を持って行ってしまいました。暫くして同舍の郎は自分の金がなくなったことに気づき、直不疑が盗んだのではないかと疑いました。直不疑は言い訳をせず、自分が盗んだと言って謝罪し、金を買って償いました。
後に帰郷していた者が戻って金を返したため、金を失くした郎は大いに慚愧しました。
この後、直不疑は長者と称されるようになります。
直不疑はゆっくり昇格して中大夫になりました。
ある人が朝廷で直不疑を誹謗し、嫂を盗んだ(嫂と姦通した。「盗嫂」)と言いました。それを聞いた直不疑は「私には兄がいない」と言っただけで、自分のために辯明しようとはしませんでした。
 
漢書・百官公卿表下』によると、直不疑は前年(景帝中六年)に衛尉になり、本年、御史大夫になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
ある日、景帝が禁中に周亜夫を招き、食事を下賜しました。しかし大胾(大きく切られた肉)が置かれているだけで、箸もありませんでした。
周亜夫は心中不快になり、後ろを向いて尚席(宴席を主管する官員)に箸を持って来させました。
すると景帝が周亜夫を見て笑いながら言いました「これでは君の意を満足できないのか(何か足りないものがあるのか?肉を与えたのに満足できないのか?原文「此非不足君所乎」)?」
周亜夫は冠を脱いで景帝に謝罪しました。
景帝が「起きよ(起)」と命じると、周亜夫は小走りで出て行きます。
景帝は周亜夫を目で送り、「このように鞅鞅(不満な様子)としているようでは、少主(幼年の皇帝。次期皇帝)の臣にはなれない」と言いました。
 
暫くして、周亜夫の子が父のために工官尚方(工官は宮内の手工業を担当する官。尚方は皇帝の器物を扱う官署)から五百そろいの甲楯(甲冑と楯)を買いました。本来は副葬品として使う物です。
この時、周亜夫の子は庸(人夫。搬送のために雇われた者)を酷使して金銭を与えませんでした。
庸は自分達が運んだ甲楯が県官(政府。皇帝)の器物を不正に買ったものだと知り、周亜夫の子を怨んで謀反を訴えました。この事件は周亜夫も巻き込みます。
訴状を読んだ景帝は官吏に命じて調査させました。
そこで官吏が周亜夫を簿責(問責。審問)しましたが、周亜夫は何も答えませんでした。
景帝が罵って言いました「わしには必要ない!」
この原文は「吾不用也」です。「景帝にとって周亜夫の供述は必要ない。死刑にしようと思ったら自由に殺すことができる」と解釈する説と、「官吏が審問しても役に立たないからこれ以上の審問は必要ない。廷尉に委ねる」と解釈する説があります。
 
景帝は周亜夫を廷尉に行かせました。
廷尉が周亜夫を責めて問いました「君侯(あなた)はなぜ造反を欲したのだ?」
周亜夫が逆に問いました「臣が買った器物は葬器だ。どうして造反というのだ?」
獄吏が言いました「君は地上で造反するつもりがなくても、地下で造反するつもりであろう!」
獄吏の尋問凌辱が酷烈になっていきました。
本来、官吏が周亜夫を逮捕した時、周亜夫は自殺しようとしましたが、夫人が止めたため死ねずに廷尉に入れられました。
周亜夫は五日間絶食し、血を吐いて死にました。
文帝から名将と称賛され、景帝時代には呉楚七国の乱を平定した大功臣の哀れな最期でした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、済陰王劉不識(哀王)が死にました。
劉不識は梁王劉武(景帝の弟)の子です。
史記梁孝王世家』によると、劉不識には子が無かったため、済陰国は廃され、済陰郡になりました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代80 景帝(十八) 景帝の詔 前142年