西漢時代80 景帝(十八) 景帝の詔 前142年

今回は西漢景帝後二年です。
 
西漢景帝後二年
己亥 前142
 
[] 『史記孝景本紀』と漢書帝紀』からです。
冬十月、徹侯(列侯)が封国に赴く規定を除きました。
文帝前二年(前178年)、文帝が列侯は必ず封国に赴くように命じましたが、今回、それが取り消されました。
 
[] 『史記孝景本紀』資治通鑑』からです。
春正月、地が一日に三動しました(一日に三回地震がありました)
 
[] 『史記孝景本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
三月、匈奴が雁門郡に入りました。
太守馮敬が戦って死にます。
漢は車騎、材官(ここでは恐らく歩兵の意味)を動員して雁門に駐屯させました。
 
史記孝景本紀』にはこの時「郅将軍が匈奴を撃った」とあります。
かつて郅都が雁門太守になって匈奴を畏れさせました西漢景帝中二年148年参照)
しかし『史記酷吏列伝(巻百二十二)』では郅都の死後に甯成が中尉になっており、甯成が中尉になったのは西漢景帝中六年(前144年)のことなので、本年西漢景帝後二年142年)には郅都は死んでいたことになります。また、この時の雁門太守は馮敬なので、郅将軍と郅都は別人のようです。
 
[] 『史記孝景本紀』からです。
五日間の酺(大宴)を行いました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春、不作が続いたため内郡近畿地方。『史記孝景本紀』では「内史郡」の臣民に命じて馬に粟穀物を食べさせることを禁止し、違反した者は馬を没収することにしました。
 
史記孝景本紀』はこれ以外の決まりも紹介しています。
徒隸には七𦆛布の衣服を着せました。『史記索隠』によると、七𦆛というのは目が粗くて質の悪い布です。
馬による舂(米を挽くこと)を禁止しました。
不作が続いて食糧が乏しくなったため(続きの意味が分かりません。原文は「禁天下食不造歳」です。恐らく「天下に命じて次の収穫までに食糧を食べ尽くすことを禁止した」というような意味だと思います。『史記志疑』は「食不造」のどれかに誤字があるとしています)
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、景帝が詔を発しました「雕文刻鏤(部屋や器物の彫刻、装飾)は農事を傷つける(損なう)ものである。錦繍纂組(多彩な錦繡)は女紅(『漢書』は「女紅」。『資治通鑑』は「女工」。意味は同じです)を害すものである。農事が傷ついたら飢の本(原因)となり、女紅が害されたら寒の原(原因)となる。飢寒が並んで至っても非を為さずにいられる者(罪を犯さずにいられる者)は寡少だ。朕は自ら耕(農耕)し、后(皇后)は自ら桑(養蚕)し、宗廟に粢盛(糧食)、祭服を奉納して天下の先(見本)となった。献上された物を受けず、太官を減らし(太官は皇帝の食事や宴席を管理する官です。太官を減らしたというのは皇宮の飲食を減らしたことを意味します)、繇賦(徭役賦税)を省いたのは、天下を農蚕に務めさせ、普段から蓄積を作って災害に備えるためである。(蓄積が豊富なら)強者が弱者を侵さず、衆が寡を暴虐せず、老耆(老人)が寿を全うさせ、幼孤が(無事に)成長できる。しかし今は不登(不作)の年があったら民の食事が極めて乏しくなっている。この咎(責任。原因)はどこにあるのだ。あるいは奸詐の者が官吏となり(または「奸詐の者が官吏を偽り」。原文「詐偽為吏」)、公に賄賂を求めて利益とし(以貨賂為市)、百姓を漁奪侵奪し、万民を侵牟(侵食)している。県丞は長吏だが、法を悪用して(姦法)盗賊と一緒になって盗みをはたらいている。これでは全く意味がないではないか(甚無謂也)。よって二千石の官員にはそれぞれの職を修めることを命じる。官職に努めず耗乱(昏乱)した者がいたら、丞相はそれを報告して罪を請え。天下に布告して朕の意思を明知させよ。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、景帝が詔を発しました「人とは、知識がないことは憂いないが奸詐になることは心配する(人不患其不知,患其為詐也)。勇がないことは憂いないが暴虐になることは心配する(不患其不勇,患其為暴也)。富がないことは憂いないが、満足を知らなくなることを心配する(不患其不富,患其亡猒也)。廉士だけが欲が少なく容易に満足できるものだ。今は訾(財産)が算十以上(『漢書』の注釈によると、「算十」は「十算」で「十万銭」。財産が十万銭以上という意味)の者がやっと官を得られるが、廉士の算(金銭。財産)が多いとは限らない。(今の法では)市籍がある者(商人)(財産があっても)官を得られず、訾がない者は(廉士でも)やはり官を得られないので、朕は甚だ憐れに思っている(甚愍之)。よって、訾算四(財産が四万銭ある者)には官を得させ、廉士に久しく失職させず、貪夫に長く利を貪らせないようにする。」
こうして財産が乏しい廉士でも仕官できるようにするため、家財が四万銭ある者は官職を得られることにしました(算貲四得官)
 
[] 『史記孝景本紀』は三月の後に「十月、長陵(高帝陵)周辺の田地を貸し出した」としていますが、十月は歳首なので、『史記志疑』は「七月の誤り」としています。
 
[] 『史記孝景本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
秋、大旱に襲われました。
衡山国と河東、雲中郡では民の間で疫病が流行りました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代81 景帝(十九) 文景の治 前141年