西漢時代82 武帝(一) 西漢武帝

今回から西漢武帝の時代です。

名を劉徹といいます。景帝の中子(長子と末子以外の子)で、母は王美人です。
以下、『史記・孝武本紀』と『漢書武帝紀』からです。
劉徹は景帝前四年(前153年)に四歳で膠東王に立てられました。
前七年(前150年)、栗太子(劉栄)が皇太子を廃されて臨江王になり、七歳の膠東王・劉徹が代わって太子になりました。母の王美人は皇后になります。
景帝後三年(前141年)正月、景帝が死にました。
甲子(二十七日)、十六歳の太子・劉徹が皇帝の位に即きました。
太后・竇氏を尊重して太皇太后とし、王皇后を皇太后にしました。
三月、皇太后の同母弟である田蚡と田勝を列侯に封じました(前年述べました)
 
王皇后の母は臧児といい、槐里の王仲という男に嫁ぎました
王仲と臧児の間には息子・王信と二人の娘ができました。景帝時代に王信は蓋侯に封じられています景帝中五年・前145年)
後に王仲が死んだため、臧児は長陵の田氏と再婚しました。田氏との間に生まれたのが田蚡と田勝です景帝前六年・前151年参照)
王信との間にできた二人の娘のうち、長女が皇后になりました。妹も景帝の後宮に入ります。『史記外戚世家』の『索隠』によると、王皇后の妹は姁児といいます。
 
史記・五宗世家』と『漢書・景十三王伝(巻五十三)』から武帝の兄弟について書きます。
景帝には十四男がいました。
河間献王・劉徳 景帝前二年に封王されました。
臨江哀王・劉閼 景帝前二年に封王されました。
魯恭王・劉餘 景帝前二年に封王されました。元は淮陽王です。
尚、「恭王」は『漢書』の記述で、『史記』では「共王」です。
江都易王・劉非 景帝前二年に封王されました。元は汝南王です。
趙敬粛王・劉彭祖 景帝前二年に封王されました。元は広川王です。
長沙定王・劉発 景帝前二年に封王されました。
膠西于王・劉端 景帝前三年に封王されました。
中山靖王・劉勝 景帝前三年に封王されました。
臨江閔王・劉栄栗太子)
 景帝前四年に皇太子に立てられましたが、後に廃されて臨江王になりました。
 
以上、九人が武帝の兄に当たるようです。
武帝は景帝前四年に膠東王に立てられ、後に皇太子になりました。
以下四人は武帝の弟です。
 
広川恵王・劉越 景帝中二年に封王されました。
膠東康王・劉寄 景帝中二年に封王されました。
清河哀王・劉乗 景帝中三年に封王されました。,
常山憲王・劉舜 景帝中五年に封王されました。
 
史記・孝武本紀』で『索隠』が「広川王より上は武帝の兄で、河間王・劉徳から広川王までは八人いるので、武帝は第九子になる」と解説していますが、河間王から広川王までは武帝を除いて十人いるので、武帝が広川王の弟だとしたら「第九子」ではなく「第十一子」になるはずです。また、封王された年を見ると広川恵王が武帝の兄である可能性は極めて小さいと思います。恐らく『索隠』の解説は誤りです。
 
武帝の母は王皇后ですが、他の十三子は栗姫、程姫、賈夫人、唐姫、王夫人の五人から生まれました。
臨江閔王・劉栄、河間献王・劉徳、臨江哀王・劉閼の母は栗姫
魯共王・劉餘、江都易王・劉非、膠西于王・劉端の母は程姫
趙敬粛王・劉彭祖、中山靖王・劉勝の母は賈夫人
長沙定王・劉発の母は唐姫
広川恵王・劉越、膠東康王・劉寄、清河哀王・劉乗、常山憲王・劉舜の母は王夫人
です。『漢書』顔師古注によると、王夫人は王皇后の妹姁児)です。
 
 
史記』には『孝武本紀』がありますが、武帝は『史記』の作者・司馬遷の時代の皇帝のなので、「孝武」という諡号はまだ存在しません。『史記太史公自序(巻百三十)』を見ると、『孝武本紀』ではなく『今上本紀』と書かれています。現在の『史記』が『孝武本紀』としているのは、後生の人が書き改めたからです。
また、『孝武本紀(今上本紀)』の内容は『史記・封禅書』の武帝に関する部分と一致します。『史記』の注釈(『集解』『索隠』)によると、西漢宣帝時代の博士・褚先生(褚少孫)が『孝武本紀』を補うために『封禅書』の内容を転載したようです。
司馬遷が書いた『孝武本紀(今上本紀)』の本来の内容は早い時点で失われたといわれています。
 
史記』の本紀は『孝武本紀』で終わりますが、上述の通り、『孝武本紀』は本来の本紀ではなく、『封禅書』の内容が転載されているだけなので、この通史では主な参考文献とはしません。
武帝以降は『漢書』の本紀と『資治通鑑』を主要な文献にします。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)