西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)

今回は西漢武帝建元元年です。二回に分けます。
 
西漢武帝建元元年
辛丑 前140
 
武帝の時代から「年号」が使われます。文帝や景帝も改元を行ったため、「前元」「中元」「後元」と称して改元の前と後を分けましたが、これらは「年号」ではありません。
「年号」は瑞祥などを元に決められる号で、西漢武帝によって制度化され、中国大陸では清朝が滅亡するまで続きました中華民国では現在も継続しています)
但し、武帝即位と同時に年号が使われるようになったわけではなく、「元狩」「元鼎」「元封」の頃から年号が立てられるようになったといわれています。その場合は、「建元」「元光」「元朔」といった年号は後からつけられたことになります武帝の年号は「建元」「元光」「元朔」「元狩」「元鼎」「元封」「太初」「天漢」「太始」「征和」「後元」と続きます)
最初の年号である「建元」は「元元号。年号)を建てる」という意味です。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が詔を発し、丞相、御史、列侯、中二千石、二千石、諸侯の相に賢良方正直言極諫の士を推挙させました。
武帝が自ら古今の治道について策問(質問)し、百余人が応えます。
その中で広川の人董仲舒の回答が優れていました。
 
董仲舒はまず天と人が互いに影響を及ぼし合っていると説きました。
人君による政治が乱れたら天が警告し、それでも改められなかったら国が滅んで新しい帝王が誕生します。天による警告は天変地異として現れます。
逆に天意に順じた正しい政治を行ったら、吉祥が現れて天下が太平になります。
天が治世の善悪を根拠に福禍をもたらし、人君が天の意思に基づいて政治を行うのは、天と人が連動しているからです。これを「天人感応」といいます。
 
董仲舒は善政を行うために、刑法(法家思想)よりも仁義儒家思想)を優先すること、州郡から優秀な人材を推挙させること、教育を重視して太学(学校)を建てること等を主張しました。
これらの意見の多くが採用されます。
文帝景帝の時代は休息の時代であり、無為道家思想)を尊重する気風がありました。しかし武帝の即位と董仲舒の建策によって儒学が諸学の筆頭に置かれ、この後の中華社会において大きな影響を及ぼすことになります。
西漢武帝の時代に司馬遷が書いた『史記』と東漢時代に班固が書いた『漢書』では、同じ出来事に対しても全く異なる評価が下されていることがあります。これは西漢武帝の時代を境に思想界に大きな変化が生まれたことを反映しています。
 
董仲舒の回答は天と人の関係を説くことから始まり、武帝が三回策問(質問)して董仲舒が三回対策(回答)したので、「天人三策」とよばれています。
全文は『漢書董仲舒(巻五十六)』に収録されています。とても長いので別の場所で紹介します。

西漢時代 天人三策 策問一

西漢時代 天人三策 対策一(前)

西漢時代 天人三策 対策一(後)

西漢時代 天人三策 策問二

西漢時代 天人三策 対策二(前)

西漢時代 天人三策 対策二(後)

西漢時代 天人三策 策問三

西漢時代 天人三策 対策三(前)

西漢時代 天人三策 対策三(後)

 
武帝董仲舒の意見を称賛し、江都相に任命しました。当時の江都王は劉非(易王。景帝の子)です。
董仲舒は若い頃に『春秋』を研究し、景帝時代に博士になりました。その進退容止(振舞い)は、礼から外れていることは行わなかったため、学者達は皆、師として尊びました。
江都相になって易王(劉非)に仕えましたが、易王は武帝の兄だったため、かねてから驕慢でしかも勇を好んでいました。
しかし董仲舒が礼を用いて糾したため、易王は董仲舒を敬重しました。
 
会稽の荘助も賢良として対策(策問に対する回答)しました。武帝は荘助を抜擢して中大夫に任命しました。
漢書』は「荘助」を「厳助」と書いています。これは東漢明帝の諱(実名)である荘を避けているからです。『資治通鑑』胡三省注は荘姓の代表として戦国時代楚国の荘周荘子と趙の荘豹の名を上げています。
 
漢書武帝紀』は六年後の元光元年(前134年)五月に「董仲舒や公孫弘等が現れた」と書いていますが、『資治通鑑』では本年(建元元年・前140年)董仲舒が進言しており、元光元年十一月に武帝董仲舒の意見に従って郡国から孝廉各一人を推挙させています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『漢書武帝紀』の誤りとしています。董仲舒儒家を推奨して百家を抑え、学校を建てて州県に茂才孝廉を推挙させるように進言しました。元光元年十一月に孝廉が推挙されているのに董仲舒の建議が同年五月ではつじつまが合いません(十月が歳首なので十一月は五月の前にあります)
また、『漢書董仲舒伝』では「天人三策」を紹介した後に二つの火災について書いています。この火災は建元六年(前135年)の出来事なので、「天人三策」が発表されたのが元光元年(前134年)では遅すぎることがわかります。
但し、董仲舒の対策が実際にいつ提出されたのかは分かっていません。『漢書武帝紀』では元光元年より前に賢良の推挙があるのはこの年(建元元年140年)だけなので、『資治通鑑』はここに書いています。
荘助も建元三年(前138年)に東甌を助けた時、既に中大夫になっているので、策問に応えたのはそれより前のはずです。『資治通鑑』は董仲舒と同じく本年に記述しています。
 
丞相衛綰が上奏しました「推挙された賢良は、ある者は申・商・張の言(法家の申不害、商鞅韓非子縦横家蘇秦張儀の学説)を学んでおり、国政を乱しているので、全て退けることを請います。」
武帝は同意しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、大赦しました。民に爵一級を下賜します。
 
また、八十歳以上の者は二算(二人分の人頭税。一算は百二十銭)を免除し、九十歳以上の者は甲卒を免除しました(原文「年八十復二算,九十復甲卒」)
これは八十歳以上や九十歳以上の老齢者本人が対象ではなく、老齢者がいる家庭が対象です。八十歳以上の老齢者がいる家庭は二人分の人頭税が免除され、九十歳以上の老齢者がいる家庭は「甲卒」が免除されました。「甲卒」というのは、徴兵の義務という意味と、軍費に充てるための賦税という意味が考えられます。
 
漢書賈鄒枚路伝(巻五十一)』を見ると、文帝時代に賈山が「九十者一子不事,八十者二算不事」と言っており、顔師古注が「一子不事」は一子の賦役を免除すること、「二算不事」は二人分の算賦人頭税を免除することと解説しています。
本年武帝建元元年)の「九十復甲卒」というのは、「九十歳以上の老齢者がいる家庭は一人の兵役を免除する」という意味ではないかと思われます。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三銖銭を発行しました。
この貨幣は「武帝三銖銭」と呼ばれています。漢代に入ってから造られた八銖半両銭、四銖半両銭等は、額面は半両でも実際の重さが異なりました(本来の半両は十二銖です)
しかし「武帝三銖銭」は貨幣に彫刻された額も実際の重さも三銖に統一されました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代84 武帝(三) 甯成 前140年(2)