西漢時代 天人三策 対策一(前)

漢書董仲舒(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。

西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)

 
今回は董仲舒の一回目の対策(回答)の前半です。
 
董仲舒が答えて言いました(対曰)
陛下が徳音を発して明詔を下し、天命と情性を求められましたが、両者とも愚臣の及ぶことではありません。
臣は謹んで『春秋』の内容を参考にし、前世で既に行われた事を視て、天と人が作用しあう関係(天人相與之際)について観察しました。それはとても恐るべきことです。国家に失道の敗(失敗)がある時は、天が先に災害を起こして譴告(譴責)します。(天下を治める者が)自省を知らなかったら(反省しなかったら)、また怪異の事によって警懼します(警告して恐れさせます)。それでも変を知らなかったら(変えようとしなかったら)、傷敗(傷害敗亡)が訪れます。このように見ると、天心は人君に対して仁愛であり、乱を止めることを欲しているのです。大いに道を失った世でなければ、天は常に助けて保全したいと思っているのです。事は(人君の)彊勉にかかっているだけです(人君が努力できるかどうかにかかっているだけです)。努力して学問を修めれば、聞見が拡がって才知がますます聡明になります。努力して道を行えば、日に日に徳が起きて大きな功ができます。これらは(これらの事を努力すれば)速く(道を失う前の状態に)還らせることができ、しかも効果があります。『詩(『大雅烝民』)』に「朝から夜まで怠けることがない(夙夜匪解)」とあり、『書尚書虞書)』に「勉めよ、勉めよ(茂哉茂哉)」とありますが、とちらも彊勉(努力)について言っているのです。
道とは、治(治世。治国)に到るための路です。仁義礼楽は全てその道具です。だから聖王が既に没しても、子孫は長久で数百歳(年)も安寧でした。これは全て礼楽教化の功です。王者がまだ楽(音楽)を作っていない時は、先王の楽で当時の世に相応しいものを用いました。こうすることで民に深く教化を行ったのです。教化の情(実態。成果)が得られなかったら雅頌の楽は完成しません。だから王者は功が成ってから楽を作り、その徳を楽としました(徳を称えて歌いました)。楽とは民風(民の風俗)を変えて民俗を感化させるものです。楽によって民を変えるのは容易で、人を感化させるのも顕著です。だから声は和の中から発せられ、情(感情)を本とし、肌膚に接し、骨髓にしまわれるのです。このようであるので、王道が微缺(欠損)しても筦絃(管弦)の声はまだ衰えないのです。虞氏(帝舜)が政事を行わなくなって久しくなりますが、楽頌による遺風はまだ存在しているので、孔子は斉で『韶』を聞くことができました。人君において、安存を欲することなく危亡を嫌うこともないような者はいません。しかし政治が乱れて国が危うくなった者はとても大勢います。それは、任せた者が相応しい人ではなく、歩んだ道が相応しい道ではなかったから、政治が日に日に仆滅(衰退滅亡)したのです。周道は幽(幽王と厲王)の時代に衰退しましたが、道が亡んだからではなく、幽厲がその道を歩まなかったからです。宣王の時代に至ると昔の先王の徳を思い、停滞した事を復興して弊害を補い、文(文王と武王)の功業を明らかにしました。そのおかげで周道は粲然と復興し、詩人が賛美して歌を作りました。上天が(周を)守って賢佐(賢良な補佐)を生み、後世が称誦(讃頌)して今に至るまで絶えません。これは朝から晩まで怠ることなく善を行った結果です。孔子はこう言いました「人が道を発揚できるのであって、道が人を発揚するのではない(人能弘道,非道弘人)。」よって、治乱廃興は自分にあり、天が命を降して元に戻れないようにしているのではありません。誖謬(道理に合わない事)を堅持して統(根本)を失っているのです。
臣が聞いたところでは、天が大奉して王にしようとする者には、人力では及ばないことが必ず自然に至ります。これが命を受けた符(兆。根拠)です。天下の人が心を同じくして帰順し、その様子が父母に帰心するようであれば、天瑞が誠意に応じて出現します。『書』には「白魚が王西周武王)の舟に入り、火が王の屋(部屋)に帰り、流れて烏になった」とありますが、これが命を受けた符です。周公は「(周の徳に対して天の)報いがあった(復哉復哉)」と言い、孔子は「徳は孤立することがなく、必ず鄰(近い者。助けてくれる人)がいる」と言いました。全て善を積んで徳を重ねたことの効果です。しかし後世になって淫佚衰微し、群生を統理(統治)できなくなったため、諸侯が背反し、良民を残賊(殺害)して壤土を争い、徳教を廃して刑罰に任せるようになりました。刑罰が適切でなかったら邪気が生まれます。邪気が下に積もったら怨悪が上に集まります。上下が不和になったら陰陽が錯乱して妖孽が生まれます。災異はこれらを縁(原因)にして起きるのです。
臣が聞いたところでは、命とは天の令、性とは生の質(本質)、情とは人の欲です。あるいは夭(早死)、あるいは寿(長寿)であり、あるいは仁、あるいは鄙(品性が劣ること)であるのは、陶冶(「陶」は陶器を作ること。「冶」は金属を作ること)によって成すのと同じで(陶器や金属を作るのと同じで)、粹美(純粋完美)にはできません。治乱の違いがあるから、一定ではないのです。孔子はこう言いました「君子の徳は風であり、小人の徳は草である。草の上に風が吹けば必ず倒れる(「君子之徳風,小人之徳草,草上之風必偃」。草は風が吹いた方向に倒れます。風は人君、草は民衆の比喩で、人君が進む方向に民も進むという意味です)。」だから堯舜が徳を行って民は仁寿になり、桀紂が暴を行って民は鄙夭になりました。上が下を感化し、下が上に従うのは、泥を鈞(ろくろ)において甄者(陶器を作る者)に任せるのと同じで、また金(金属)を鎔(鋳型)にいれて冶者(金属を作る者)に任せるのと同じです。「(民を)安んじれば帰順し、動かせば和して協力する(『論語子張篇』「綏之斯来,動之斯和」)」というのはこのような状態(民は上の行動に左右されること)を言っているのです。
臣は謹んで『春秋』の文(「春王正月」。『春秋』の最初の一文)を考察し、王道の端(始め)を求めて「正」を得ました。正は王に次ぎ、王は春に次いでいます(「春」「王」「正」の順で書かれています)。春は天が為したもので、正は王が為したものです(四季の一つである「春」は天がもたらしたもので、「正(正す)」は王が行ったことです)。その意味は、「上は天が為すことを奉じ、下は自分(王)の為すことを正す」となります。正とは王道の端(始め)であり、王者が何かを為そうと欲したら、天に端(始め。きっかけ)を求めるべきなのです。
天道において最も大きなものは陰陽です。陽は徳で陰は刑です。刑は殺を主持し、徳は生を主持します。だから陽は常に大夏におり、生育養長の事を行います。陰は常に大冬にあり、空虚で用を為さない所に積もります。これを見ると、天は徳に任せて刑に任せていないことがわかります。天は陽を出して上で(仁徳を)布施させ、歳功(一年の収穫)を主持させています。また、陰を下に伏せて、時には表に出て陽を助けさせています。陽が陰の助を得なかったら、陽だけで歳(収穫)を成すことはできません。陽は常に成歳(収穫)を名大義。大任)としていますが、これは天意です。王者は天意を受けて事を行っているので、徳教に(治世を)任せて刑には任せないのです。刑に治世を任せられないのは、陰に成歳(収穫)を任せられないのと同じです。政治を行う者が刑に任せたら天に順じないことになります。だから先王はそうしなかったのです。今は先王の徳教の官を廃して執法の吏だけに治民を任せていますが、これは刑に任せるという意味ではありませんか。孔子はこう言いました「教化することなく誅することを虐という(不教而誅謂之虐)。」虐政を下に用いていながら、徳教が四海を覆うことを欲しても、実現させるのは困難です。
 
 
 
次回に続きます。