西漢時代 天人三策 対策三(後)
『漢書・董仲舒伝(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。
西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)
孔子はこう言いました「無為にして治めたのは舜だろう(亡為而治者,其舜虖)。」(舜は)正朔(暦)を改めて服色を変えることで天命に順じただけです。その他の事は全て堯の道を遵守したので、何も変える必要がありませんでした。だから王者には改制の名があっても変道の実はないのです。しかし夏(王朝)は忠を上とし(尊び)、殷(商王朝)は敬を上とし、周(王朝)は文(文雅。文治。礼楽の制度)を上としました。継いだものを救うために(前代から引き継いだ弊害を克服するために)これら(忠・敬・文の方針)を用いたのです。孔子はこう言いました「殷(商王朝)は夏礼(夏王朝の礼制)を元にした。(殷が夏礼に対して行った)損益(削ったり増やしたりすること)を知ることができる。周は殷礼に従った。(周が殷礼に対して行った)損益を知ることができる。(同じように)あるいは周を継ぐ者がいたとしても(孔子の時代は周が滅んでいないのでこう言っています)、百世経っても(周礼の内容を)知ることができる(殷因於夏礼,所損益可知也。周因於殷礼,所損益可知也。其或継周者,雖百世可知也)。」これは、百王が用いるのはこの三者であるという意味です(百王が継承したとしても、根本にあるのは忠・敬・文の三者です)。夏は虞(舜)を受け継ぎましたが、夏だけが損益について語られていません。それは(舜と夏の)道が一つで上としたもの(尊んだもの)も同じだったからです。道の大原(根本)は天から出ています。天が変わらなければ道も変わりません。禹は舜を継ぎ、舜は堯を継ぎ、三聖が互いに受け継いで一道を守り、救弊の政がなかったので(前代の弊害を改める政策が必要なかったので)、損益について語られないのです。このように観ると、治世(太平の世。堯舜の時代)を継いだ者は道が同じで、乱世(夏・商王朝の末期)を継いだ者はその道が変わっていることが分かります。今、漢は大乱の後を継いだので、周の文致(文雅を極めること)を少し削って夏の忠を用いるべきでしょう。
陛下は明徳嘉道があり、世俗の靡薄(軽薄)を憐れんで王道の不昭に心を痛めているので、賢良・方正の士を挙げて議論考問し(または「義(道理)を論じて考問し」。原文「論誼考問」)、仁誼(仁義)による休徳(美徳)を興して帝王の法制を明らかにし、太平の道を立てることを欲しました。臣は愚鈍で不肖なので、聞いたことを述べ、学んだことを諳んじ、師の言を語り、ただこれらのことを失わずにいられるだけです(「師の教えを忘れずにいられるだけで、自分で考え出すことはできません。」謙遜の言葉です)。もし政事の得失を論じ、天下の息秏(盛衰・興廃)を察するのなら、それは大臣輔佐の職(職責)であり、三公九卿の任(任務)であるので、臣・仲舒が及べるところではありません。しかし臣は心中に怪があります(不思議に思うことがあります)。古の天下も今の天下であり、今の天下も古の天下であり、共に天下であることに変わりありません。しかし古は大いに治まって上下が和睦し、習俗が美盛になり、令がなくても行われ、禁じなくても止まり、吏(官吏)に姦邪がなく、民に盗賊がなく、囹圄(監獄)は空虚で、徳が草木を潤し、沢(恩沢)が四海を覆い、鳳皇が来て集り、麒麟が来て遊びました。古を基準に今を量ったら、どうしてこれほどまで遠く及ばないのでしょうか?どこに繆盭(錯乱。錯誤)があってこのように陵夷(徐々に衰退すること)しているのでしょうか?古の道を失っているところがあるというのでしょうか?天の理に違えているところがあるというのでしょうか?試しに古を考察して天に帰れば(天理に遡れば)、恐らく(原因を)見つけることができるでしょう。
天は(万物に)与える物を分けています。歯(牙)を与えられた者は角が除かれ、翼をつけた者は足が二本しかありません。大を受けた者は小を取ることができないのです。古の禄を与えられた者(官員)は力によって食事をせず(農業等の労働に頼って生計を立てず。原文「不食於力」)、末(工商業)のために動きませんでした(不動於末)。これも大を受けた者は小を取らないという姿で、天と意を同じくしています。既に大を受けたのにまた小も取ったら、天でも満足させられなくなるので、人ならなおさらです。これ(大を受け取っている者が小も取ること)が民が囂囂(騒々しい様子。怨嗟を訴えること)として不足に苦しむ原因です。身は寵を受けて高位に登り、家は暖かくて厚禄を食している者が、富貴の資力を利用して下で民と利を争ったら、民はどうして対抗できるでしょう(または「民がどうして従うでしょう。」原文「安能如之哉」)。大勢の奴婢を擁し、多数の牛羊を養い、田宅を拡げ、産業を拡大し、貯蓄を増やし、これらに務めて限りがなかったら、それが原因で民を逼迫し、民は時と共に衰弱して(日削月朘)徐々に大窮に至ることになります。富者が奢侈羨溢(「羨溢」は「富裕」、または「溢れる」という意味。ここでは「浪費」を指します)する一方で、貧者が窮急愁苦(困窮して憂い苦しむこと)しているのに、窮急愁苦の者を上が救わなかったら、民は生を楽しまなくなります。民が生を楽しまなくなったら、死も避けなくなるので、どうして罪(刑罰)を避けようとするでしょうか。これが刑罰が頻繁に使われていながら、姦邪に勝てない原因です。よって、禄を受けている家は禄だけを食べ、民と業を争うべきではありません。そうすれば、利が均等に分布し、民は家を満足させられるようになります。これは上天の理であり、太古の道でもあるので、天子はこれに法って制度を作り、大夫はこれに順じて行動するべきです。
公儀子(公儀休)が魯の相だった時、自分の家に帰ったら織帛(織物)があったため、怒って妻を家から出しました。舍(家)で食事をした時には(自分の家の庭で採れた)葵を食べたため、怒って(庭の)葵を抜き去りました。公儀子はこう言いました「私は既に禄を食している。そのうえ園夫・紅女(女工)の利を奪うというのか。」古の賢人君子で位に列した者(官位に就いた者)は皆このようだったので、下はその行いを崇高とみなし、その教えに従い、民はその廉(清廉)に感化されて貪鄙(貪婪卑劣)ではなくなりました。ところが周室が衰退した時期に至ると、卿大夫が誼(義)を緩めて利に急ぐようになったので、推譲の風(謙譲の気風)がなくなり、争田の訟(土地を争う訴訟)が生まれるようになりました。だから詩人はこれを憎んで風刺し、「高峻なあの南山は、石が高々と積重なっている。赫赫たる師尹(周の太師・尹氏)は、民がそろって仰ぎ見ている(『小雅・節南山』「節彼南山,惟石巖巖,赫赫師尹,民具爾瞻」)。」と歌ったのです。