西漢時代87 武帝(六) 上林苑 前138年(2)
『資治通鑑』胡三省注によると、池陽は県名で馮翊郡に属します。黄山は扶風郡槐里県の宮殿で、黄山宮といいます。長楊も宮殿で、盩厔(地名)にありました。宮内に長楊があったため長楊宮といいます。宜春も宮殿で長安東南にありました。
空が明ける頃、南山の下に入ります。
逆旅の主人に漿(飲物)を求めると、主人の翁は「漿はない。溺(尿)ならある」と言いました。
主人は武帝一行を盗賊だと思い、若者を集めて襲撃しようとします。
それを知った主人の妻(原文は「嫗」。嫗は本来、母や老女の意味ですが、女性の通称としても使われます。ここでは妻を指します)が武帝の容貌を見て普通の人ではないと思い、主人を止めてこう言いました「この客は常人ではありません。それに、備えもあるので図ることはできません(害すことはできません)。」
しかし主人は妻の言うことを聞きません。
そこで妻は主人に酒を飲ませて酔ったところを縛ってしまいました。若者達は解散します。
妻は鶏を殺して武帝をもてなし、無礼を詫びました。
翌日、武帝は宮殿に帰ると妻を招いて金千斤を下賜し、夫を羽林郎に任じました。
『資治通鑑』胡三省注によると、羽林郎は郎中令に属す宿衛の官です。羽のように速く、林のように多いため羽林といいます。または、羽は王者の羽翼を指すともいわれています。
武帝は微行の道が遠いため労苦を招き、しかも百姓の憂患にもなっていると考え、上林苑を建てることにしました。太中大夫・吾丘寿王に命じ、阿城(阿房宮)以南、盩厔以東、宜春以西の土地の面積や価値を調べて登記させます。これらの地の民を遷して上林苑を南山につなげるつもりです。
また、中尉と左‧右内史に詔を下して管轄下の県が有する草田(開墾していない荒田)の面積を報告させました。土地を奪われた鄠県と杜県の移民に償うためです。
吾丘寿王が任務を終えて上奏すると、武帝は大いに喜んで称賛しました。
この時、東方朔が武帝の傍におり、諫言して言いました「南山は天下の阻(壁)です。漢は振興してから三河の地(河南・河内・河東。洛陽周辺)を去り、霸・滻(霸水と滻水)以西に留まり、涇・渭(涇水と渭水)の南に都を構えました。これはいわゆる天下陸海の地(『資治通鑑』胡三省注によると、陸は高くて平な地を指します。海は万物を産出する場所という意味です。関中は高地で物資が豊富なので「陸海の地」に当たります)であり、秦はこの地に依って西戎を降し、山東を兼併しました。その山は玉、石、金、銀、銅、鉄、良材(良木)を産出し、百工がそれを原料とし、万民がそれに頼って生活しています(所卬足也)。更に秔(稲の一種)、稻、棃、栗、桑、麻、竹箭(矢に使う竹)の饒(豊富な物資)があり、土は薑、芋を植えるのに適しており、水には䵷(蛙)、魚が多数おり、貧者でも人々の家への供給は足りており、飢寒の憂がありません。だから鄷・鎬の間は土膏(肥沃な土地)と号され、一畮の価値は一金に値するのです。
今、その地を規制して苑を造り、陂池水沢(池沼湖沢)の利を絶って民から膏腴の地を奪ったら、上は国家の用(費用)を乏しくし、下は農桑の業を奪うことになります。これが不可とする一つ目の理由です。
荊・棘の林を盛んにし、狐・兔の苑を拡げ、虎・狼の虚(墟。荒地)を大きくしたら、人の塚墓を壊し、人の室廬(家屋)を廃し、幼弱の者に故地を懐かしんで思念させ、耆老(老人)に泣涕(涕泣)して悲しませることになります。これが不可とする二つ目の理由です。
開拓して営み(斥而営之)、壁で囲んで囿(動物を養う場所)とし(垣而囿之)、騎を東西に馳せて車を南北に駆けさせ、その地には深溝や大渠があります。このような一日の娯楽(狩猟)のために、陛下の輿(車)を危険に曝す価値はありません(わざわざ苑囿を建造し、一日の娯楽のために車輿を駆けさせて危険を冒す価値はありません。原文「不足以危無隄之輿」。「無隄」は「無限」の意味で、「無隄之輿」は無限の富貴を持つ天子を指します。または「不足以危」は「亦足以危」が正しく、「無隄」は「備えがない」と解釈する説もあります。その場合は「苑囿での一日の娯楽は、備えがない輿を危うくするに充分です」という意味になります。以上、『資治通鑑』胡三省注を参考にしました)。これが不可とする三つ目の理由です。
殷は九市の宮を造って諸侯が叛しました(『資治通鑑』胡三省注によると、商の最後の王・紂は宮中に九市を建てました。九市の宮というのは、九カ所の市をもつ宮殿という意味です)。霊王(春秋時代・楚国の王)は章華の台を建てて楚の民が離散しました。秦は阿房の殿を興して天下が乱れました。
糞土愚臣(「糞土」は卑賎の意味)が盛意(皇帝の意向)に逆らい、罪は万死に値します。」
司馬相如が上疏(上書)して諫めました「ある物は同類(形が同じ)でも能力が異なるといいます。だから力(膂力)を称賛するなら烏獲、捷(速さ)を語るなら慶忌、勇(勇猛)を期待するなら賁・育が挙げられるのです(烏獲は戦国時代・秦武王の力士です。慶忌は春秋時代・呉王僚の子で、射術に精通して敏速でした。賁・育は孟賁と夏育でどちらも古の猛士です)。臣の愚見では、人には確かにこのような違いがあり、それは獣も同じはずです。今、陛下は阻険の地に登ることを好み、猛獣を射ていますが、もし突然、逸材(壮健有力)の獣に遭遇し、不存の地(逃げ場がない状況。または思いもよらない状況)に驚いて属車の清塵(清塵は車の後ろの砂塵。「属車の清塵」というのは皇帝に随行する車を意味します)を犯し、輿が轅を還す間もなく(皇帝の車が向きを変える間もなく)、人が巧を施す暇もなかったら(技巧、巧計を施す間もなかったら)、たとえ烏獲や逄蒙(古の弓の達人)の技があったとしても用いることができず、枯木や朽株すら難(危険。禍害)となるでしょう。これは胡(匈奴)・越が轂下(「轂」は車輪。または「輦轂」で皇帝の車。転じて京師の意味)に起こり、羌・夷が軫(「軫」は車の後部の横木。転じて車の意味)に近接するのと同じで、危険がないはずがありません。たとえ万全で無患だったとしても(安全で無害だったとしても)、本来、天子が近づくべきことではありません。そもそも道を清めてから進み、路の中央を駆けた時でも、銜橛の変(「銜」は馬と車を繋ぐ金具。「橛」は車に使うくさび。「銜橛の変」は馬車の金具やくさびが外れる事故)が起きることがあります。豊草(茂草)を渡って丘墟を駆けたらなおさらでしょう。前には利獣の楽(獲物を得る楽しみ)があり、内(心中)には異変があるかもしれないという意思がなかったら、それを害すのは難しくありません。万乗の重(天子の重み)を軽んじて安全を図ることなく、喜んで万が一の危険がある道に出て娯楽と為すのは、臣が思うに、陛下が採るべきことではありません。賢明な者はまだ芽生えていない物を遠くから見ることができ、叡知な者は形がないうちに危険から避けることができるはずです(明者遠見於未萌而知者避危於無形)。禍とは元々多くが隠微(外に現れず分かりにくいこと)の中に隠れており、人がおろそかにしているところで発生するものです。だから諺にこうあるのです『家に千金を積んでいたら、堂の縁に坐らない(「家累千金,坐不垂堂。」堂の縁に坐っていたら軒から瓦が落ちて来る恐れがあります。富貴の人は危険な場所にいないという意味です)。』この諺が言っているのは小さなことですが、諭している内容は大きなものです。」
武帝は司馬相如を称賛しました。
次回に続きます。