西漢時代88 武帝(七) 趙佗の死 前137~136年

今回は西漢武帝建元四年と五年です。
 
西漢武帝建元四年
甲辰 前137
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、血のように赤い風が吹きました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、旱害がありました。
 
[] 『『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月、東北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
 
[四] 『資治通鑑』からです。
この年、南越王趙佗が死んで孫の文王趙胡が立ちました。
 
趙佗は秦代に南海尉任囂を継ぎ、秦が滅亡した頃に南越武王を称しました。趙佗が死んだ時は秦滅亡から約七十年が経っています。
史記・南越尉佗列伝(巻百十三)』の注釈(集解)は、趙佗の年を「百歳はあった(佗蓋百歳矣)」と書いています。
また、『大越史記全書(巻之二)』では、趙佗の在位年数を七十一年、寿を百二十一歳としています。趙佗には仲始という子がおり、文王・趙胡は仲始の子に当たります。
1983年に広東省広州市で南越王の墓が発掘されました。ここが南越文王の墓とされています(現在は「西漢南越王博物館」になっています)。但し、発掘された玉印には「趙昧」と刻まれていたため、文帝の名は「趙胡」ではなく「趙昧」が正しいとする説もあります。
 
 
 
西漢武帝建元五年
乙巳 前136
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、三銖銭が廃されました。
三銖銭は武帝建元元年(前140年)に発行された貨幣です。
代わりに新しい半両銭が発行されました。
この半両銭は文帝時代の半両銭と同じ四銖銭(文帝前五年175年)のようです。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
五経』博士を設立しました。
五経というのは『易』『書』『詩』『礼記』『春秋』の五書で、儒学の経典です。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
夏四月、平原君が死にました。
漢書外戚伝上(巻九十七上)』によると、平原君というのは王太后の母・臧児で、武帝の外祖母です。武帝が即位した時に太后の母を尊重して平原君にしました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、大蝗害がありました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月、広川王劉越(恵王)と清河王劉乗(哀王)が死にました。二人とも景帝の子です。
 
漢書景十三王伝(巻五十三)』によると、広川王は劉越の子劉斉が継ぎました。これを繆王といいます。
劉乗には子がいなかったため、清河王国は廃されました。
 
 
 
次回に続きます。