西漢時代89 武帝(八) 閩越遠征 前135年(1)
丙午 前135年
春二月乙未(初三日)、遼東郡の高廟で火災がありました。
『資治通鑑』胡三省注は「景帝が全国の郡国に高祖廟を建てるように命じたため、遼東郡にも高廟があった」と解説していますが、各郡や各国の諸侯に命じて高祖廟を建てさせたのは恵帝のはずです(西漢高帝十二年・前195年参照)。
『資治通鑑』胡三省注によると、墓陵の上に園があり、前に「廟」、後ろに「寝」が造られました。「廟」は生前の朝廷に当たり、「寝」は宮内(生活の場所)に当たります。廟には神主(位牌)が保管され、四季の祭祀が行われました。寝には生前に使っていた衣服器物が保管されています。
竇氏は文帝の皇后、景帝の母、武帝の祖母です。
武安侯・田蚡が代わって丞相になります。
田蚡は儒学を支持していましたが、武帝建元二年(前139年)に太皇太后・竇氏が儒学の推進に反対したため、太尉の職を免じられていました。今回、丞相に返り咲いたのは、武帝が儒学の興隆を目指していることを反映しています。
田蚡は武帝の母である王太后の同母弟で、驕慢奢侈な人物でした。邸宅は他の官員の誰よりも豪華で、田園は極めて膏腴(肥沃)です。各郡県から買ってきた物が道に連なりました。しかも四方から贈られる賄賂も受け取っていたため、家中の金玉、婦女、狗馬、声楽(奏者や歌妓)、玩好(玩具。嗜好品)は数え切れないほどでした。
田蚡が推挙した者の中には、家から起きて(他の官職に就くことなく)直接、二千石の高官に任命された者もいました。田蚡の権勢は皇帝を凌ぐほどです。
武庫を自宅の敷地にするというのは、謀反を意味します。
この後、田蚡は言動を少し抑えるようになりました。
秋八月、東方に孛星(異星。彗星の一種)が現れ、天に長く連なりました。
閩越王・郢が兵を起こして南越の辺邑を攻めました。
南越王は漢の天子との約束を守って妄りに兵を起こさず、使者を送って漢の天子に上書しました。
この時の南越王は文王・趙胡です。
淮南王・劉安が出征に反対して上書しました。風土も習慣も異なる越を遠征するのは困難であり、利益よりも損失の方が大きくなること、大軍を動員するよりも一人の使者を送って恩徳によって懐柔した方が得策であることを説きます。
上奏文は非常に長いので、別の場所で紹介します。
西漢時代 淮南王の上書(前)
西漢時代 淮南王の上書(後)
淮南王・劉安の上書が届いた頃、漢軍は既に出撃していましたが、山嶺はまだ越えていませんでした。閩越王・郢は兵を発して険要な地を守ります。
閩越王の弟・餘善が相や宗族と相談しました「王は勝手に兵を発して南越を攻め、許可を求めなかった。だから天子の兵が誅しに来たのだ。漢は兵が多くて強盛なので、今回、幸い勝てたとしても、後には更に大勢の軍が来て、我々の国が滅ぶまで止まないだろう。王を殺して天子に謝罪しよう。天子が納得して兵を退ければ、国は完全なままでいられる。もし(天子が)聞き入れなかったら力戦し、勝てなかったら海に逃げよう。」
閩越の群臣はそろって「善」と言い(同意し)、鏦(短矛)で王を殺しました。使者を送って王の首を大行・王恢に届けます。
王恢が言いました「(漢軍が)来た目的は王を誅すことだ。今、王の頭が至って謝罪もした。戦わずに倒したのだから、これ以上の利はない。」
武帝は詔を発して両将の兵を撤収させました。
ところが、閩越王・郢を殺した餘善は威勢が国中に行き渡っており、国民の多くも餘善に帰属していました。餘善は自立して王を名乗ります。
繇王(越繇王)には餘善を抑制する力がありません。
武帝は餘善を東越王に立てて繇王と共存させました。
武帝が荘助を南越に派遣して朝廷の意向を伝えました。
南越王・趙胡が頓首して言いました「天子が臣のために兵を起こして閩越を討伐されました。死んでもその徳には報いられません。」
南越王は太子・趙嬰斉を漢に派遣して宿衛(禁中の護衛)にしました。
南越王が荘助に言いました「国が寇(侵略)を被ったばかりなので、使者(荘助)は先に行ってください。胡(私)は日夜旅の準備をしており、すぐに入京して天子に謁見します。」
劉安は自分の考えが武帝に及ばなかったことを謝罪しました。
荘助が南越を去ってから、南越の大臣がそろって南越王を諫めました「漢が兵を起こして郢を誅殺したのは、この行動によって南越を驚動させるため(震撼させるため。警告するため)でもあります。それに、かつて先王はこう言いました『天子に仕えたら礼を失しないことだけを望む(事天子期無失礼)。』重要なのは、好語(甘言)を悦んで入朝してはならないということです。入朝したら再び帰ることはできなくなり、亡国の勢(形勢)となります。」
南越王・趙胡は病と称して入朝を中止しました。
この年、韓安国を御史大夫に任命しました。
次回に続きます。