西漢時代90 武帝(九) 汲黯 前135年(2)

今回は西漢武帝建元六年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
東海太守で濮陽の人汲黯が主爵都尉になりました。
漢書張馮汲鄭伝(巻五十)』によると、汲黯の先祖は衛君(秦二世皇帝の時代に滅ぼされました)に寵信されており、代々卿大夫を勤めました。汲黯で十世(代)になります。『資治通鑑』胡三省注は、恐らく汲(地名)を采邑にしたためそれが氏になったと解説しています。
主爵中尉は秦から踏襲された官で、列侯を管理します。景帝の時代に都尉に改名されました。後に武帝が右扶風に改め、職責も内史右地の統治に変えました。
 
汲黯が謁者(皇帝の近侍)だった頃、厳格だったため人々から畏れられていました。
当時、東越が互いに争ったため、武帝が汲黯を派遣して視察させましたが、汲黯は東越まで行かず、呉に至って引き還しました。
汲黯が武帝に報告しました「越人が互いに攻撃し合うのは、元々彼等の俗(風俗)がそうだからです。天子の使者を辱める(煩わせる)には足りません。」
 
河内で失火があって千余家が延焼したことがありました。武帝は汲黯を派遣して確認させます。
汲黯は戻るとこう報告しました「家人(庶人)に失火があり、家屋が隣接していたため燃え広がりましたが、憂いるには足りません。(それよりも)臣が河南を通った時、河南の貧人で水旱に悩む者が万余家もいました。人々が飢餓に苦しんでいたので、臣は謹んで便宜を図り、符節を持って河南の倉粟を放ち、貧民を救済しました。臣は節を返して矯制(偽の命令)の罪に伏すことを請います。」
資治通鑑』胡三省注によると、漢律では、矯制の者は棄市の罪に当たりました。
武帝は汲黯の賢才を認めて赦しました。
 
汲黯が太守として東海に赴任すると、官員を整えて民を治め、清静を好みました。丞や史(掾史)を選んで任用し、大指(大事。大要)だけを重視して些末にはなりませんでした。
 
汲黯は病が多く、閨閣(内室)に臥して外出しませんでした。
しかし一年余すると東海郡が大いに治まり、人々が汲黯を称賛しました。
それを聞いた武帝が汲黯を召して主爵都尉に任命し、九卿と同格にしました。
資治通鑑』胡三省注から九卿の説明です。漢は太常、郎中令、中大夫令、太僕、大理、大行令、宗正、大司農、少府が正九卿とされ、中尉、主爵都尉、内史が九卿に列する同格の地位とされました。
 
汲黯の政務は無為を心がけ、大礼(大局)に導いてを文法(法令条文)にはこだわりませんでした。
 
しかし汲黯の為人は誇り高くて礼が少なく、大衆の面前でも人を叱責して過失を許容しませんでした。
当時、武帝は文学の士や儒者を集めており、「私はこのようにしたい(原文「吾欲云云」。「云云」の部分は「仁義を施したい」等の具体的な内容を省略しています)」と言いました。
すると汲黯が言いました「陛下は内は多欲なのに外では仁義を施しています。どうして唐虞(堯舜)の治を真似できるでしょう。」
武帝は黙ってしまいました。怒って顔色を変え、朝会を終了します。公卿は汲黯を心配して恐れました。
退出した武帝が左右の者に言いました「汲黯の愚昧はひどすぎるであろう(甚矣汲黯之戇也)。」
 
群臣の中に汲黯を非難する者がいました。しかし汲黯はこう言いました「天子が公卿輔弼の臣を置くのは、阿諛追従して天子の意を奉じさせ、主を不義に陥らせるためなのか。私は既にこの立場にいる。自分の身だけを愛して朝廷を辱めることになったらどうするのだ。」
 
汲黯は病が多く、休暇の期限である三カ月が過ぎようとしたことがありました。武帝はしばしば休暇の延期を許しましたが(皇帝が休暇の延長を許すことを「賜告」といいます)、やはり病は治りません。
ある時、汲黯に代わって荘助が武帝に休暇を求めました。
武帝が荘助に問いました「汲黯とはどのような人だ?」
荘助が答えました「黯に職を任せて官に就かせたら、人を越えることはありません。しかし彼に少主(若い主。武帝を補佐させて、城を深く堅く守らせたら(『資治通鑑』の原文は「其輔少主,守城深堅」。『漢書 張馮汲鄭伝(巻五十)』では「其輔少主守成」となっています。「少主の守成を補佐させたら」という意味です。「守成」は先人の業績を守って成就させることです。『漢書』の方が意味が通っています)、招いても来ず、追い払っても去らないので(自分の意思が固いという意味です。原文「招之不来,麾之不去」)、たとえ賁(孟賁と夏育。古代の勇士)を自任する者でも(彼の意志は)奪えないでしょう。」
武帝が言いました「その通りだ(然)。古の社稷の臣というのは、黯のような者が近かったのであろう。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴が漢に和親を請いました。武帝が群臣に協議させます。
大行王恢は燕人なので匈奴の事を熟知していました。そこでこう言いました「漢と匈奴は和親しましたが、いつも数年も経たずに匈奴が)盟約に背いています。同意するのではなく、兵を起こして撃つべきです。」
韓安国が反対して言いました「匈奴は鳥のように住む場所を遷しており、抑制するのは困難なので、上古から人とはみなしませんでした。今、漢軍が数千里を進んで利を争っても、人馬とも疲弊してしまいます。虜匈奴が万全の状態でこちらの疲弊を制するのは(虜以全制其敝)危道というものです。和親するべきです。」
群臣の多くも韓安国に賛成したため、武帝は和親に同意しました。
 
 
 
次回に続きます。