西漢時代91 武帝(十) 李広と程不識 前134年
丁未 前134年
改元が行われました。前年までは「建元年間」、本年からは「元光年間」です。但し、この頃にはまだ年号がなく、後に「建元」「元光」等の年号がつけられたともいわれています。
「孝」は父母によくつかえる孝行な者、「廉」は清廉な者です。
夏四月、天下に大赦しました。民の長子に爵一級を下賜します。
また、七国(呉楚七国の乱を起こした国)の宗室で今までに宗族の関係を絶たれていた者は、宗族の籍が恢復されました。
五月、武帝が詔を発しました「朕はこう聞いている。昔、唐虞(堯舜)の時代は、服の色や模様を変えただけで(服を見たら罪人かどうか分かるようにしただけで)民が(罪を)犯さなくなり、日月が照らす所では従順にならない者がいなかった。周の成・康(西周の成王と康王)は刑を置いても用いず、徳は鳥獣に及び、教えは四海に通じた。海外は粛眘(粛慎。東北の国)が来朝し、北は渠搜(異民族)を発し(徴発し。渠搜が徭役に応じ)、氐羌が帰服した。星辰は孛(異星。彗星)にならず(星辰不孛)、日蝕も月蝕もなく(日月不蝕)、山陵は崩れず、川谷は塞がれなかった。麟鳳(麒麟や鳳凰)が郊外の藪におり、河洛(黄河と洛水)から図書(瑞祥)が現れた。ああ(嗚虖)、どのように施せばここに至るのであろうか。
今、朕は宗廟を奉じることができたので、朝早く起きて求め、夜遅くまで考えているが(夙興以求,夜寐以思)、淵水を渡るようなもので、どうすれば渡り切ることができるのか分からない。(先帝の業は)美しく偉大である(猗與偉與)。どのように行動すれば先帝の洪業休徳(大業美徳)を明らかにし、上は堯舜に加え、下は三王(夏・殷・周)に配すことができるだろう。朕の不敏(不聡明)は徳を遠くに及ぼすことができない。これは子大夫(汝等大夫)が見聞きしていることだ(知っていることだ)。賢良の士は古今王事の体(本質)に明るいから、受策察問したら(皇帝の問いを受けたら)全て書き記して回答し、それを著して篇(竹簡の書)とせよ。朕が自ら閲覧する。」
衛尉・李広が驍騎将軍として雲中に駐軍しており、中尉・程不識が車騎将軍として雁門に駐軍していました。
六月、漢朝廷が二人を罷免しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、周末に左・右・前・後将軍を置き、秦と漢もこれを踏襲しました。位は上卿です。武帝の時代になって驍騎・車騎等の将軍が置かれ、後にはますます名号が増えて記録できないほどになりました。これらをまとめて雑号将軍といいます。
程不識の程氏は顓頊と重黎の子孫で、西周宣王の時代、程伯休父(休甫)が大司馬になりました。程に封じられたため一部の子孫が国名を姓氏とし、別の子孫は官名の司馬を姓氏にしました。程氏と司馬氏は共通の祖先を持ちます。
しかし、「衛尉・李広」と「中尉・程不識」が雲中と雁門を守っていたというのは不自然で、しかも翌年には「衛尉・李広を驍騎将軍にした」という記述があります。
「李広は隴西、北地、雁門、雲中太守を歴任した。武帝が即位してから、左右の者が李広は名将だと言って推薦したため、朝廷に招いて未央衛尉に任命した。程不識もこの時、長楽衛尉だった。かつて程不識は李広と共に辺境の太守として駐屯する軍を指揮した。」
『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』は「衛尉・李広を驍騎将軍にして雲中に駐屯させ、中尉・程不識を車騎将軍にして雁門に駐屯させたが、六月に罷免した」と読めますが、実際は雲中太守・李広を朝廷に招いて未央衛尉に任命したようです。驍騎将軍になるのは翌年の事です。
程不識は既に長楽衛尉に任命されていたはずですが、詳細はわかりません。『漢書・百官公卿表下』によると、この時の中尉は張歐なので、「中尉・程不識」というのは誤りです。車騎将軍は武帝元光六年(前129年)に衛青が拝命します(『漢書・衛青霍去病伝(巻五十五)』)。衛青以前の車騎将軍が程不識だったのかもしれません。
以下、『資治通鑑』からです。
李広と程不識はどちらも辺境の太守として兵を指揮し、名を知られていました。
李広が行軍する時は部伍(軍を形成する部隊。部には校尉、伍には伍長がいます)も陣形もなく、水草が豊かな場所を選んで駐軍し、兵達は自由に行動していました。刁斗(銅制の食器。昼は炊事飲食に使い、夜は敲きながら営内を警備しました)を敲いて警衛することもありません。莫府(幕府)の文書も簡単にしています。但し、斥候を遠くに放っていたため、害に遭うことはありませんでした。
程不識は部曲(部隊)、行伍(隊列)、営陣を正し、刁斗を敲き、士吏が軍簿(軍内の資料)を几帳面に処理して明け方になるほどでした。軍中の将兵に休みはありません。李広とは全く反対でしたが、やはり害に遭ったことはありませんでした。
程不識が言いました「李広の軍は極めて簡易だから、虜卒(敵兵)が突然襲ったら抵抗できない。しかしその士卒は安楽自在で、皆、彼のために喜んで死ぬことができる。我が軍は煩擾(複雑で煩わしいこと)だが、やはり虜(敵)が我が軍を犯すことはできない。」
匈奴は程不識よりも李広の才略を恐れ、士卒も多くが喜んで李広に従い、程不識に従うことを苦としました。
秋七月癸未、日食がありました。
次回に続きます。