西漢時代92 武帝(十一) 李少君 前133年(1)
戊申 前133年
今回、武帝は初めて雍で五畤の郊祀を行いました。この後、三年に一回郊祀を行うようになります。『索隠』によると、「元年祭天,二年祭地,三年祭五畤」と決められ、三年で一巡し、祭祀は皇帝が自ら行いました。
本来、神君は長陵の女子です。自分の子が死んだために女も死んでしまいました。
その後、兄弟の妻に当たる宛若(『集解』によると宛若は字です)の前に女が現れました。宛若は家の中に祠を建てて女を祀ります(これが神君の祠です)。すると多くの民が祠を祀るようになりました。かつて平原君(臧児。武帝の外祖母、王太后の母)も祠を訪ねたことがあります。
宛若の子孫はこの事を通して尊顕(尊貴で名が知られること)になりました。
武帝が即位すると、宮内で厚礼を用いて神君を祀りました。神君の言葉は聞こえるのに、人の姿は見えなかったと言います。
李少君はかつて深沢侯の舍人でした。『漢書・高恵高后文功臣表』によると、深沢侯は高帝時代の功臣で、趙将夕といい(『史記・高祖功臣侯者年表』では「趙将夜」です)、諡号は斉侯です。呂太后の時代に罪を犯したため廃されましたが、後に復封されました。
文帝時代に戴侯・趙頭が継ぎ、景帝時代に趙脩が継ぎましたが、罪を犯して司寇(辺境の労役に従事する刑)に処されました。
『資治通鑑』胡三省注は、「李少君は趙脩の舍人だったはずだ」としています。
李少君は自分の年と成長した場所を隠し、方術をもって各地の諸侯を周遊しました。妻子はいません。
人々は李少君が物(鬼物)を使って不死に及ぶことができると聞いて次々に饋(飲食。礼物)を贈りました。そのおかげで常に金銭や衣食に余裕があります。
すると人々は李少君が生業を治めなくても饒給(裕福)でいられると思いました。しかもどこの人かも分からないため、ますます李少君の方術を信じて、先を争って仕えました。
李少君は巧妙な言葉で不思議な事象を言い当てることが得意でした。
ある時、武安侯・田蚡に従って酒を飲みました。酒宴の席に九十余歳の老人がいたため、李少君はその老人の大父(祖父)と一緒に狩猟をして遊んだ場所について語りました。老人は子供だった頃に大父に従ってその場所に行ったことがあり、まだ覚えていました。
同席した者が皆驚嘆します。
李少君が武帝に言いました「竈を祀れば物を招くことができ(致物)、それができたら丹沙を黄金に変えることができ、寿(寿命)が増して蓬莱の仙者(仙人)にも会えます。仙者に会えたら封禅を行うことで不死になります。黄帝がそうでした。臣はかつて海上で遊んで安期生(『資治通鑑』胡三省注によると、琅邪の人で東海の沿岸で薬を売っていました。当時の人々は「安期生は千歳を越えている」と言っていました)に会いました。彼は臣に棗を食べさせましたが、それは瓜のように大きなものでした。安期生は蓬莱を行き来している仙者で、気が合えば人に会いますが、合わなければ隠れてしまいます。」
武帝は自ら竈の祭祀を行い、方士を海に送って蓬莱に住む安期生のような仙人を求めました。また、丹沙と諸薬を調合して黄金にするという方術も始めました。
この後、沿海の燕や斉から怪迂(怪異で非現実的なこと)の方士が多数集まって神事について語るようになりました。
亳の人・謬忌が太一(天の尊神)を祀る方(方術。方法)を上奏して言いました「天神で貴いのは太一です。太一の補佐を五帝といいます。」
『資治通鑑』胡三省注によると、五帝とは東方青帝・霊威仰、南方赤帝・赤熛怒、西方白帝・白招矩、北方黒帝・叶光紀、中央黄帝・含樞紐を指します。一説では、蒼帝(青帝)の名は霊符、赤帝の名は文祖、白帝の名は顕記、黒帝の名は玄矩、黄帝の名は神斗といいます。
次回に続きます。