西漢時代93 武帝(十二) 馬邑の役 前133年(2)

今回は西漢武帝元光二年の続きです。
 
[] 前年、漢と匈奴が和親しましたが、本年、早速決裂します。『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
当時、雁門郡馬邑県に聶壹という富豪がいました。聶が氏で壹が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、楚の大夫が聶を食采にしたためそれが氏になりました。
 
聶壹が大行王恢を通して武帝にこう言いました「匈奴と和親したばかりなので(匈奴)辺境(の官吏)を親信(親しんで信じること)しています。利によって誘い出し、伏兵で襲撃すれば、必勝の道となります(必ず破ることができます。原文「必破之道也」)。」
 
春、武帝が詔を発して公卿に問いました「朕は子女を飾って単于に配し(嫁がせ)、金幣文繍といった賂(財物。礼物)も非常に厚くしている。しかし単于は詔命を受けながら嫚(怠慢。傲慢)を加え(待命加嫚)、侵盗が止まない。辺境の被害を朕は甚だしく憐れに思う。今、兵を挙げて攻めたいと思うが、如何だ?」
王恢が言いました「臣が聞くには、全代の時(代が一国だった時。『資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代初期、代が趙に滅ぼされる前の時代を指します)、代の北には強胡(強盛な異民族。匈奴の敵がおり、内には中国(中原諸国)の兵と近接していたのに、それでも老人を養い、幼児を成長させ(養老長幼)、時(季節)に応じて種樹(栽植)し、倉廩は常に満たされ、匈奴が軽々しく侵攻しませんでした。今は陛下の威によって海内が一つになりました。しかし匈奴の侵盗が止まないのは他でもありません。(漢を)恐れていないからです。臣が思うには、匈奴を)撃つことに便(利)があります。」
韓安国が反対して言いました「臣が聞いたところでは、高皇帝はかつて平城で包囲され(高帝七年200年)、七日も食事ができませんでしたが、包囲を解いて位に返ってからも忿怒の心を持ちませんでした。聖人とは天下を度とするものであり(天下を優先して寬大な度量を持つものであり)、己私(私情)によって天下の公(大局)を怒傷(怒って傷つけること)するものではありません。だから劉敬を派遣して和親を結び、今に至るまで五世(五代)の利となっているのです。臣が思うには、攻撃しないこと(勿撃)に便(利)があります。」
王恢が言いました「それは違います(不然)。高帝は甲冑を身につけて武器を握り(身被堅執鋭)、十年近く行軍しました。平城の怨に報いなかったのは力が不能だったからではなく(力が足りなかったからではなく)、天下を休ませたいという心があったからです。今、辺境がしばしば震撼し、士卒が傷死して中国(中原)では槥車(棺を運ぶ車)が相い望んでいます(連なっています)。これは仁人が悲痛するべき状態なので、撃つことに便があると言うのです。」
韓安国が言いました「それは違います(不然)。兵を用いる者は飽によって飢を待ち(食糧が豊富な状態で飢えた敵を待ち。原文「以飽待飢」)正治によってその乱を待ち(正しく治まった状態で混乱した敵を待ち。原文「正治以待其乱」)、舎を定めてその労を待つものです(陣営を定めて疲労した敵を待つものです。原文「定舍以待其労」)。だから兵(武器)を接したら衆(敵軍)を破り、国を攻めたら城を落とし、常に坐して敵国を使役することができるのです。これが聖人の兵です。今、武器を隠して軽挙し、長駆深入りしても、功を為すのは困難です。従行(縦行。前後に長く行軍すること。深入り)したら脅威にさらされ、衡行(横に広がって行軍すること)したら中を絶たれ(恐らく、先頭と後続の間を絶たれるという意味です)、進軍が速ければ食糧が欠乏し、ゆっくりなら利(勝機)に遅れ、千里に至る前に人馬とも食が乏しくなります。『兵法』にはこうあります『人(軍)を送ったら獲られる(遺人獲也)。』だから臣は攻撃しないこと(勿撃)に便(利)があると言うのです。」
王恢が言いました「それは違います(不然)。臣が今言っている攻撃とは、兵を発して深入りすることではありません。単于の欲に順じることで単于の欲を利用することで)、誘い出して辺境に至らせ、我々は梟騎(勇猛な騎兵)、壮士を選んで陰伏させることで備えとし、険阻な地を慎重に塞いで戒(警戒。防備)とするのです。我が軍の勢(形勢)が定まったら、あるいは敵の左を営し(「営」は恐らく「図る」「攻撃する」の意味です。原文「或営其左」)、あるいは敵の右を営し(或営其右)、あるいは敵の前に当たり(或当其前)、あるいは敵の後ろを絶ちます(或絶其後)。そうすれば必ず単于を禽(擒)にでき、万全を得られます(百全必取)。」
武帝は王恢の意見に従うことにしました。
 
史記韓長孺列伝(巻百八)』では元光元年(前年)に聶壹が馬邑の事を画策していますが、『漢書武帝紀』によると、実際に出征したのは元光二年です。『資治通鑑』胡三省注は、元光元年に聶壹が進言し、元光二年に決議されたと解説しています。
 
夏六月、御史大夫韓安国を護軍将軍に、衛尉李広を驍騎将軍に、太僕公孫賀を軽車将軍に、大行王恢を将屯将軍に、太中大夫李息を材官将軍に任命し、車騎、材官(歩兵)三十余万を率いて馬邑の傍にある谷に隠れさせました。匈奴単于が馬邑に入ったら出撃する予定です。
資治通鑑』胡三省注によると、軽車将軍の「軽車」は古代の戦車を指し、将屯将軍の「将屯」は「屯(駐軍)の主監」を意味します。
 
漢は聶壹を間諜にして秘かに匈奴に逃走させました。
聶壹が匈奴の軍臣単于に言いました「私は馬邑の令(県令県丞。県の長吏)を斬り、城を挙げて降ることができます。そうすれば財物を全て手に入れることができます。」
単于は聶壹を寵信していたため、納得して同意しました。
聶壹は死罪囚(死刑囚)を斬ってその頭を馬邑の城下に掲げ、単于の使者に見せて言いました「馬邑の長吏は既に死にました。急いで来るべきです。」
単于は十万騎を率いて塞を越え、武州(雁門郡)に入りました。
 
単于が馬邑から百余里離れた場所まで来た時、原野に放たれた家畜を見つけました。しかし牧者は一人もいません。
単于は怪しいと思い、亭を攻撃して雁門尉史を捕えました。
資治通鑑』胡三省注によると、塞の近くには尉が置かれていました。百里に一人の尉がおり、尉を補佐する士史と尉史がそれぞれ二人います。この時、雁門の尉史は匈奴を監視するために亭を守っていました。
 
単于が尉史を殺そうとしました。すると尉史は漢軍が埋伏している場所を単于に告げます。
単于は驚いて「わしは元から疑っていたのだ」と言い、兵を率いて還りました。
漢領から出た単于がこう言いました「わしが尉史を得たのは天(天意)だ!」
尉史は天王と呼ばれることになりました。
 
塞下の漢軍に単于が去ったという情報が伝えられました。漢兵は塞まで追撃しましたが、追いつけないと判断して撤兵しました。
王恢は別の部隊を率いて代から出撃し、匈奴の輜重を襲うはずでした。しかし単于が既に帰還し、しかも匈奴の兵が多いと聞いて、敢えて出撃しませんでした。
 
王恢に対して武帝が激怒しました。
王恢が弁解して言いました「最初の約束では、(匈奴)馬邑城に入れさせてから、兵が単于と接し(主力が単于と戦い)、臣が輜重を撃って、利を得られることになっていました。しかし今、単于は至らずに還り、臣が三万人の衆を使っても、敵わずただ恥辱を得るだけなので、還ったら斬られると知っていましたが、陛下の士三万人を守ったのです(敢えて戦わずに退却したのです)。」
武帝は王恢を廷尉に下して裁かせました。
 
廷尉が判決を言い渡しました「王恢は逗橈(恐れて留まること。敵を避けること)しました。斬首に値します。」
王恢は千金を丞相田蚡に贈って命乞いしました。
田蚡は武帝に直接進言するのを避けて王太后武帝の母。田蚡の異母姉)にこう言いました「王恢は馬邑の事の首謀者です。今、計画が成功せず、しかも王恢を誅殺したら、匈奴のために仇に報いることになります。」
 
武帝が王太后に朝見した時、王太后が田蚡の言葉を伝えました。
武帝はこう言いました「馬邑の事の首謀者は王恢です。彼のために天下の兵数十万を動員し、その言に従ってこういうことになったのです。そもそも、たとえ単于を得られなかったとしても、王恢の部(部隊)がその輜重を撃っていれば、まだ士大夫の心を慰められたかもしれません。今、王恢を誅殺しなかったら、天下に謝ることができません。」
武帝の言葉が王恢に伝えられたため、王恢は自殺しました。
 
この事件の後、匈奴は漢との和親を絶ち、道を守る要塞を攻撃してしばしば漢の辺境を侵しました。その回数は数え切れないほどになります。
しかし匈奴は関市(漢と匈奴の関門に設けられた市)での利益を求めており、漢の財物も好みました。そのため漢も関市を絶たずに交易を続けて匈奴の意に応えました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
秋九月、民に五日間の大酺(大宴)を命じました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代94 武帝(十三) 灌夫事件 前132~131年