西漢時代95 武帝(十四) 西南夷経営 前130年(1)
辛亥 前130年
金帛を使って四方から善書を求め、その数は漢朝(朝廷)の蔵書と同等になります。
淮南王・劉安も書物が好きでしたが、収集した多くの書は浮辯(軽薄、虚構。実用性がないこと)なものでした。
『漢書・景十三王伝(巻五十三)』によると、劉徳が集めたのは『周官』『尚書』『礼』『礼記』(顔師古注には『礼』は『礼経』、『礼記』は儒者が礼について記した書とあります)『孟子』『老子』や七十子の徒(孔子の弟子)が論じたものでした。
劉徳は儒学を信奉し、急いでいる時も必ず儒学の教えを基準にして行動を正したため(『資治通鑑』の原文は「被服造次必於儒者」です。「被服」は「感化される」「信奉する」、「造次」は「急ぎ慌てる」という意味です。『漢書・景十三王伝』では「被服儒術,造次必於儒者」となっています)、山東の多くの儒者が劉徳と交友しました。
劉徳は三雍宮(『資治通鑑』胡三省注によると、辟雍、明堂、霊台を指します。「雍」は「和」に通じ、天地、君臣、人民が和すことを意味します)の制度について答えたり、詔策(詔書)によって質問された三十余の項目に回答しました。その内容は道術(儒学による道の学説)を推奨して問題の核心を得ており、文章は簡潔明快でした。
春正月、河間王・劉徳が死にました。
中尉・常麗(『資治通鑑』胡三省注によると、常姓は黄帝の相・常先の子孫です)が朝廷に報告してこう言いました「王は身端行治(身を正して行いを治め)、温仁恭倹、篤敬愛下(忠厚で下の者を愛し)、明知深察(聡明で洞察深く)、鰥寡(妻を失った夫と夫を失った妻)に恵みを与えました。」
大行令が上奏しました「『諡法』には『聡明叡知は献という(聡明睿知曰献)』とあります。諡を献王としましょう。」
こうして劉徳の諡号は献王になりました。
南越は唐蒙に蜀の枸醤を贈ります。枸醤というのは果実を潰して作った蜀の珍味のようです。『資治通鑑』胡三省注に詳しい解説がありますが省略します。
唐蒙が枸醤をどうやって手に入れたのか問うと、南越の人はこう答えました「西北の牂柯江を通って来ました。牂柯江は広さが数里もあり、番禺城下に流れています。」
「牂柯」は船を泊める時に縄を縛る柱を指します。戦国時代に楚の荘蹻が夜郎を討伐し、且蘭に至って岸に船を停泊させました。荘蹻は歩兵を率いて夜郎を滅ぼします。この後、船を泊めた且蘭は牂柯に改名されました(東周赧王三十六年・前279年参照)。
『資治通鑑』胡三省注によると、牂柯江は東に流れて鬱林郡広鬱県で鬱水になり、更に東に向かって番禺で海に入ります。
番禺県は南海郡に属し、当時は南越王の都です。
賈人が言いました「蜀だけで枸醬がとれます。多くの人が秘かに運び出して夜郎(夜郎国)で売っています。夜郎は牂柯江に臨み、江の広さは百余歩もあるので、船を通すには充分です。南越は財物を使って夜郎を役属(支配下に置くこと)させ、西は桐師(『資治通鑑』胡三省注によると、西南夷の一種。夜郎国の西方で、葉楡の西南)にまで至っていますが、まだ臣下として使うには至っていません。」
以前、一人の女子が遯水で洗濯をしていると、三節の大竹が流れて来ました。竹は足の間に入ります。
女子は竹の中から泣き声がするのを聞いたため、割ってみました。すると中から男児が生まれました。
女子は男児を連れて帰って養います。
武帝元鼎六年(前111年。本年から約二十年後の事です)、漢が南夷を平定して牂柯郡を設けます。夜郎侯は漢軍を迎え入れて投降したため、武帝から王の印綬を下賜されましたが、後に殺されてしまいました。夷獠(西南の少数民族の総称)の人々は竹王(夜郎王)が人の血気から生まれた存在ではないと信じて尊重していたため、後代を立てるように求めました。牂柯太守・呉霸がこれを報告したため、武帝は竹王の三子を侯に封じました。
『資治通鑑』に戻ります。
唐蒙が武帝に上書しました「南越王は黄屋左纛(「黄屋」は馬車の黄色い屋根。「左纛」は馬車の左に立てる旗飾。どちらも皇帝の車に使います)を使っており、その地は東西万余里におよび、名は外臣ですが実は一州の主です。今、長沙、豫章を経由して(南越に)行くには水道(河川)が多くて道が絶たれているので、交通が困難です。しかし臣が聞いたところでは、夜郎は精兵を有していて十余万を得られるので、(夜郎を支配下に置いてから)牂柯江に船を浮かべて不意を突けば、越を制圧する一奇(奇計)となるでしょう。漢の強と巴・蜀の饒(豊かな物資)を使えば、夜郎に道を通して吏(官吏)を置くのも甚だ容易な事です。」
唐蒙が帰って報告し、武帝は犍為郡を置きました。
漢は巴・蜀の卒を動員して道を修築させ、僰道から牂柯江に向かわせました。
蛮夷がいる県を「道」といいます。僰道は犍為郡に属します。
労役に従事する者は数万人に上り、多くの士卒が命を落としたり逃亡しました。
唐蒙が「軍興法(戦時の法令制度)」によって渠率(指導者)を誅殺したため、巴・蜀の民が大驚恐します。
司馬相如が帰って報告します。
この頃、西夷の邛や筰の君長が南夷の状況を知りました。南夷が漢と通じて多くの賞賜を与えられたため、多数の者が漢の臣妾(臣民)になることを願い、南夷と同じように官吏を置くことを請います。
武帝が司馬相如に意見を求めると、司馬相如はこう言いました「邛、筰、冉駹は蜀に近く、道も容易に開けます。秦の時に道を通して郡県にしましたが、漢が興きてから廃されました。今、また開通して郡県を置くことができたら、南夷にも勝ります。」
『資治通鑑』胡三省注によると、南夷は牂柯郡(夜郎。牂柯郡が置かれるのは元鼎六年・前111年で、当時は犍為郡の一部です)と犍為郡(僰道)、西夷は越巂郡(邛都。越巂郡が置かれるのは元鼎六年・前111年で、当時は蜀郡の一部です)と益州郡(元封二年・前109年に置かれます)に当たります。但し、『中国歴史地図集』を見ると、筰や冉駹は蜀郡に属すようです。
武帝は司馬相如の意見に納得しました。司馬相如を中郎将に任命し、符節を建てて使者として西夷に向かわせます。司馬相如と副使・王然于等は伝(駅車)に乗って出発し、巴・蜀の官吏に幣物を持たせて西夷を籠絡しました。邛、筰、冉駹、斯楡の君は全て内臣(漢の臣)になることを願います。
漢は辺境の古い関を除いて拡大した地に新しい関を置き(除辺関,関益斥)、西は沬水や若水に至り、南は牂柯に至って境界とし、零関道を通し、孫水に橋を造り、邛都に通じさせて、一都尉十余県を置きました。これらは全て蜀郡に属します(後に分かれて越巂郡になります)。
武帝が詔を発して卒一万人を動員し、雁門の阻険を治めさせました。
「阻険を治める(原文「治雁門阻険」)」というのは、「険阻な地に守りを置いた」という意味と、「険阻な地形を平坦にして道を通じさせた」という意味に解釈できます。前者なら匈奴の侵攻を防ぐことが目的であり、後者なら今後の匈奴討伐が目的になります。
次回に続きます。