西漢時代97 武帝(十六) 公孫弘 前130年(3)
この年、吏民で当世の政務に明るい者や先聖の術(学問)を修めた者を召しました。朝廷に招かれた者は上計の官吏(計簿を提出するために上京する官員。毎年、全国の県が戸籍や財政等の状況をまとめて資料を作りました。この資料が計簿です。県は計簿を郡に提出し、郡は管轄する県の計簿をまとめて国に提出しました。これを「上計制度」といいます)と一緒に上京することになります。道中の県に命じて食糧を提供させました。
菑川の人・公孫弘が皇帝の問いに答えて言いました「臣が聞いたところ、上古の堯・舜の時代は、爵賞を貴ばなくても(爵位を上げたり褒賞を増やさなくても)民は善を奨励し、刑罰を重くしなくても民は罪を犯しませんでした。これは(帝王が)自らの身を正して見本となり、信を用いて民を遇したからです(躬率以正而遇民信也)。しかし末世(末代。末期)になると爵位を貴くして褒賞を厚くしても民は善を奨励せず、刑を深くして(苛酷にして)罰を重くしても姦(犯罪)は止まなくなりました。上が正しくなく、民を遇すにも信が無かったからです。賞を厚くし刑を重くしても、善を奨励して非(罪)を禁じるには足りません。必ず信を守ることが必要なのです。
能力に応じて官を与えれば、職責を分けて治めることができます。無用の言を棄てれば事情(真実)を得ることができます。無用の器を作らなければ、賦斂(税)を省くことができます。民の時を奪わず民の力を妨害しなければ(民が農耕に忙しい時に労役を命じなければ)、百姓が富裕になります。徳がある者を進め、徳がない者を退ければ、朝廷が尊くなります。功がある者を上に置き、功がない者を下にすれば、群臣に秩序ができます(原文「群臣逡」。「逡」は「退く」「譲る」で、能力がない群臣が上に行かなくなるという意味です)。罰と罪が相応していれば、姦邪を防止できます。賞と賢が相応していれば、臣下が(善を)奨励します。この八者は治の本(治世の根本)です。こうすれば民がそれぞれの業を行って争うことなく、(問題を解決する時に)理を得て怨みが生まれず、礼があって乱暴にならず、(君主が)これ(民)を愛して(民は)上に親しみます。これらは天下の急務です。礼義とは民が服すところです。賞罰がこれ(礼義)に順じれば、民が禁を犯さなくなります。
臣が聞いたところ、気が同じなら従い(互いに影響し合い)、声が和していたら応じる(気同則従,声比則応)といいます。今、人主が上で和徳し(徳と和し。徳に符合し)、百姓が下で和合すれば(上の徳と協調できれば)、心が和すことで気が和し、気が和すことで形が和し、形が和すことで声が和し、声が和すことで天地の和応(和して応じること)が生まれます。それによって陰陽が和し、風雨が時に順じ、甘露が降り、五穀が豊作になり(五穀登)、六畜が繁殖し、嘉禾(瑞祥)が興り、朱草(瑞祥)が生え、山が禿げず(山不童)、沢が涸れなくなります。これが和の極み(和之至)です。」
当時、百余人が皇帝の試験に答えました。太常は公孫弘の成績を下位に置きます。
「待詔」というのは、皇帝の詔を待つことです。漢代は文学経術の士を金馬門に待機させていました。皇帝が必要な時に詔を発して彼等を招き、意見を求めたり経術の講義をさせます。まだ特定の官号はありません。
『資治通鑑』胡三省注によると、武帝の時代に馬相を看る東方京(人名)という者が銅馬を作る方法を献上し、銅馬を魯班門の外に建てたことから、魯班門を金馬門に改名しました。または金馬門は宦者署(宦官の官署)で、武帝が大宛の馬を得てから、銅で馬の像を鋳造して署門に建てたため、金馬門と呼ばれるようになりました。
斉人・轅固は九十余歳でしたが、賢良として召されました。
公孫弘は仄目(横目)で轅固に接しました(轅固を正視できませんでした)。
しかし数年経っても道は通じず、士卒は疲弊と飢えに苦しみ、暑湿に遭って多くの者が命を落としました。
西南夷もしばしば反したため、兵を起こして遠征しており、そこでも巨万を数える出費を招きましたが、功がありませんでした、
この状況を憂いた武帝は詔を発して公孫弘に視察に行かせました。
公孫弘が朝会で議論する時は、まず論点の始めだけを並べて武帝に自ら回答を選ばせました。朝廷で武帝に直接反対して争うことはありません。そのため武帝は公孫弘の行動が慎重温厚で、弁論に長けていて(または「弁論で余地を残し」。原文「弁論有余」)、文法(法令)・吏事(公務)に習熟しており、儒術によって文飾できると判断し、大変喜びました。
公孫弘は一年間で左内史まで出世します。
公孫弘は菑川・薛の人です。若い頃に獄吏になりましたが、罪を犯して免じられました。家は貧しく、沿海で豕(豚)を養っていました。四十余歳になってから『春秋』や雑説(各種の説。各家の学説)を学び始めます。
公孫弘は上書して病を理由に官を辞し、故郷に帰りました。
公孫弘は辞退して「以前、西に行ったことがありますが、用いて不能(無能)だったため罷免されました。改めて別の者を選ぶことを願います」と言いましたが、国人が頑なに公孫弘を推したため、公孫弘は太常に赴きました。
こうして公孫弘が武帝の策問に応えて重用されるようになります。
但し、公孫弘が何月に召されたのかは分かりません。一年で左内史になったと書かれているので、年の初めの事かもしれません。
『資治通鑑』に戻ります。
公孫弘が上奏した時、武帝が不可としたら、公孫弘は朝廷で討論しませんでした。常に汲黯と一緒に武帝の時間が空いた時に伺い、汲黯が先に発言して公孫弘が後から補足しました。武帝はいつも満足し、進言を全て採用します。
こうして公孫弘は日々ますます親しく重用されるようになりました。
汲黯が朝廷で公孫弘を弾劾しました「斉人の多くは詐(狡猾)で情実(誠意)がありません。元々臣等とこの議を建てたのに、今、全て背きました。これは不忠です!」
武帝が公孫弘に問うと、公孫弘は謝罪してこう言いました「臣を知る者は臣を忠と為し、臣を知らない者は臣を不忠と為します。」
武帝は公孫弘の言葉に納得しました。
次回に続きます。