西漢時代98 武帝(十七) 車騎将軍衛青 前129年
壬子 前129年
冬、商車に税をかけることにしました。
春、武帝が詔を発して役卒数万人を動員し、鄭当時の策に則って渠を築きました。
三年で渠が開通し、人々はその便を称えました。
匈奴が上谷に侵入して吏民を殺略しました。
公孫賀は得るものがなく、公孫敖は匈奴に敗れて七千騎を失いました。
漢の朝廷は公孫敖と李広を吏(官吏。獄吏)に下しました。
二人とも斬刑の判決が下されましたが、贖(大金を払って罪を贖うこと)して庶人になりました。
武帝が詔を発しました「夷狄に義が無いのは、既に久しいことである。最近、匈奴がしばしば辺境を侵したので、将を派遣して撫師(軍を慰撫すること)させた。古の者は、兵を訓練して士気を振わせたものである(常に兵を訓練して戦に備えていたものである。原文「治兵振旅」)。しかし(今回は)虜が突然侵入し、将吏は会ったばかりで上下が調整できておらず、代郡の将軍・敖(公孫敖)と雁門の将軍・広(李広)は任において不肖(不才。無能)で、校尉も義に背いて妄りに行動し、軍を棄てて敗北し、少吏(小吏)も禁を犯した。用兵の法においては、不勤不教(任務に励まず士卒に軍令を徹底させないこと)は将率(将帥)の過(過失)であり、教令宣明(軍令を士卒に教えて明らかにすること)しても尽力できないのは、士卒の罪である。将軍は既に廷尉に下され、理(法)によって正した。そのうえ法を士卒に加えて二者を並行させるのは(将も兵も法を用いて裁くのは)、仁聖の心ではない。朕は衆庶が害に陥ること(刑を受けること)を憐れむ。恥を除いて行いを改め、再び正義を奉じたくても、(重刑を受けたら)道が欠けて方法がない(改心する機会がない)。よって雁門と代郡の軍士で法(軍法)を順守しなかった者を赦すことにする。」
衛青だけは功績があったため関内侯の爵位を下賜されます。
衛青は奴虜(平陽公主の家の騎奴)の出身でしたが、騎射に優れていて材力も常人を越えていました。また、士大夫に会ったら礼をもって遇し、士卒には恩恵を与えたため、人々は喜んで衛青のために働きました。
衛青には将帥の才があり、出征するたびに功を立てます。
天下は武帝の人を知る力に感服しました。
夏、大旱が襲いました。
蝗害もありました。
秋、匈奴がしばしば辺境を侵しました。漁陽郡が最も大きな被害を負います。
漢は衛尉・韓安国を材官将軍に任命し、漁陽に駐軍させました。
次回に続きます。