西漢時代98 武帝(十七) 車騎将軍衛青 前129年

今回は西漢武帝元光六年です。
 
西漢武帝元光六年
壬子 前129
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、商車に税をかけることにしました。
資治通鑑』胡三省注によると、商賈(商人)の車や船を課税の対象にしたようです。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司農鄭当時が言いました「渭渭水を穿って渠(水路)を造り、下は河黄河に至らせれば、関東の粟(食糧)を輸送する道が容易になり、しかも渠下の民田万余頃を灌漑できます。」
 
春、武帝が詔を発して役卒数万人を動員し、鄭当時の策に則って渠を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、渠は長安から始まり、南山に沿って黄河まで三百余里ありました。
 
三年で渠が開通し、人々はその便を称えました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が上谷に侵入して吏民を殺略しました。
 
武帝は車騎将軍衛青を上谷から、騎将軍公孫敖を代から、軽車将軍公孫賀を雲中から、驍騎将軍李広を雁門から出撃させました。それぞれ万騎を率いて関市(関門に設けられた市場)匈奴を撃ちます。
 
衛青は龍城に至って匈奴の首虜(首と捕虜)七百人を得ました。
資治通鑑』胡三省注によると、龍城は匈奴が天を祀ったり諸部が集まって会を開く場所です。
 
公孫賀は得るものがなく、公孫敖は匈奴に敗れて七千騎を失いました。
 
李広も匈奴に敗れて生け捕りにされました。匈奴は李広を二頭の馬の間に置き、網の上に寝かせて十余里進みます。
李広は死んだふりをしましたが、突然跳び起きて匈奴の少年が乗っている馬(胡児馬)に跨り、弓を奪って南に駆けました。こうして匈奴から逃れて帰還します。
 
漢の朝廷は公孫敖と李広を吏(官吏。獄吏)に下しました。
二人とも斬刑の判決が下されましたが、贖(大金を払って罪を贖うこと)して庶人になりました。
 
武帝が詔を発しました「夷狄に義が無いのは、既に久しいことである。最近、匈奴がしばしば辺境を侵したので、将を派遣して撫師(軍を慰撫すること)させた。古の者は、兵を訓練して士気を振わせたものである(常に兵を訓練して戦に備えていたものである。原文「治兵振旅」)。しかし(今回は)虜が突然侵入し、将吏は会ったばかりで上下が調整できておらず、代郡の将軍(公孫敖)と雁門の将軍(李広)は任において不肖(不才。無能)で、校尉も義に背いて妄りに行動し、軍を棄てて敗北し、少吏(小吏)も禁を犯した。用兵の法においては、不勤不教(任務に励まず士卒に軍令を徹底させないこと)は将率(将帥)の過(過失)であり、教令宣明(軍令を士卒に教えて明らかにすること)しても尽力できないのは、士卒の罪である。将軍は既に廷尉に下され、理(法)によって正した。そのうえ法を士卒に加えて二者を並行させるのは(将も兵も法を用いて裁くのは)、仁聖の心ではない。朕は衆庶が害に陥ること(刑を受けること)を憐れむ。恥を除いて行いを改め、再び正義を奉じたくても、(重刑を受けたら)道が欠けて方法がない(改心する機会がない)。よって雁門と代郡の軍士で法(軍法)を順守しなかった者を赦すことにする。」
 
衛青だけは功績があったため関内侯の爵位を下賜されます。
衛青は奴虜(平陽公主の家の騎奴)の出身でしたが、騎射に優れていて材力も常人を越えていました。また、士大夫に会ったら礼をもって遇し、士卒には恩恵を与えたため、人々は喜んで衛青のために働きました。
衛青には将帥の才があり、出征するたびに功を立てます。
天下は武帝の人を知る力に感服しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、大旱が襲いました。
蝗害もありました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、武帝が雍に行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、匈奴がしばしば辺境を侵しました。漁陽郡が最も大きな被害を負います。
漢は衛尉韓安国を材官将軍に任命し、漁陽に駐軍させました。
 
 
 
次回に続きます。