西漢時代99 武帝(十八) 太子と皇后 前128年(1)

今回は西漢武帝元朔元年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元朔元年
癸丑 前128
 
改元が行われました。前年までは「元光年間」、本年からは「元朔年間」です。但し、この頃にはまだ年号がなく、後に「建元」「元光」「元朔」等の年号がつけられたともいわれています。
資治通鑑』胡三省注によると、「元朔」の「朔」は「蘇」に通じ、「蘇」は「息」を意味するので、「万民品物大繁息(万民万物が繁殖生息する)」という意味になります。または、「朔」は「始」と同義で、「更為初始(改めて始める)」という意味を表します。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十一月、武帝が詔を発しました「公卿大夫とは、方略をまとめ、統類(綱紀条例)を一つにし、教化を広め、風俗を美しくするものである。また、仁を本にして義を祖とし(仁義を根本とし)、徳を褒めて賢を禄し(賢才に俸禄を与え)、善を勧めて暴を刑したから(暴虐を罰したから)、五帝三王が昌盛したのである。朕は朝早く起きて夜晩くに寝て(夙興夜寐)、宇内(天下)の士と共にこのような路に至ることを嘉している(美事と考えている。願っている)。だから耆老(老人)に恩を加え(原文「旅耆老」。「旅」を動詞として使う時は、「(旅人を)養う」「(旅人を)もてなす」という意味があります。ここでは「老人を養う」「老人に恩を加える」という意味になります)、また孝敬の者も優待し(復孝敬)、豪俊を選び、文学を講じ(講習し)、政事を稽参(考察)して民心に進む(近づく)ことを求めた。(朕は)執事(執政の官吏)に深詔し、廉(清廉の士)を興して孝(孝悌の士)を挙げさせ(興廉挙孝)、風気を形成することを望み、偉大な聖業を継承しようとした(「紹休聖緒」。「休」は「美」、「緒」は「業」の意味です)。十室(十戸)の邑には必ず忠信の者がおり、三人が並んで歩いたら必ず自分の師となる者がいるはずだ(三人並行,厥有我師)。しかし今は、一郡を挙げても一人も推挙しないことがある。これは教化が下に徹底できていないからであり、徳行を積んだ君子を塞いで上に聞こえなくしてしまう。二千石の官長(郡守)は人倫(人間関係。または人材の選抜)を紀綱(管理)するものなのに、(このような状態で)どうして朕を助けて幽隠(隠れた場所。隠居した者)を照らし(燭幽隠)、元元(善意善良。または民衆)を勧め(勧元元)、民衆を奨励し(厲蒸庶)、郷党(郷里)の訓を崇めさせることができるのだろうか。そもそも、賢を進めれば上賞を受け、賢を隠したら顕戮(死刑)を蒙るのが古の道である。よって中二千石、礼官、博士は不挙の者(賢才を推挙しない者)の罪を議定せよ。」
 
有司(官員)が上奏しました「古において諸侯が士を納めたら(貢士)、壹適(適切な人材を一度得ること)を好徳といい、再適(適切な人材を二度得ること)を賢賢といい、三適(適切な人材を三度得ること)を有功と言って九錫(褒賞。下述します)を加えました。逆に士を納めなかったら(不貢士)、壹(一度目)は爵を削り(黜爵)、再(二度目)は地を削り(黜地)、三(三度目)は爵と地を全て除きました(黜爵地畢)。下に附いて(下と結んで)上を欺いた者は死に(死刑になり)、上に附いて(上におもねって)下を欺いた者は刑が与えられ、国政に関わったのに民に益をもたらさなかった者は排斥され、上位にいながら賢者を進められなかったら退ける。こうすることで善を勧めて悪を除くことができます(勧善黜悪)。今、詔書が先帝の聖緒(聖業)を照らし、二千石に孝廉を挙げるように命じたのは、元元(ここでは民衆の意味です)を教化して風俗を変えるためです(移風易俗)。孝(孝悌の士)を挙げず詔を奉じなかったら、不敬として論じる(処罰する)べきです。廉(廉潔の士)を察しない(見分けない)のは職責に堪えられないということなので(不勝任也)、罷免するべきです。」
武帝は上奏を採用しました。
 
奏文にある「九錫」について『漢書』の注釈を元に解説します。
応劭は「九錫」の内容を「一は車馬、二は衣服、三は楽器、四は朱戸(功績がある大臣が使う朱色の大門)、五は納陛、六は虎賁(勇士)百人、七は鈇鉞(刑具。生殺与奪の権を示します)、八は弓矢、九は秬鬯(美酒)」としています。「納陛」は殿上に登るために造られた貴人専用の階段です。
臣瓉はこう言っています「九錫を全て備えるのは、伯者(覇者)の盛礼で、斉桓公も晋文公もそろえられなかった。今、三回賢臣を推挙しただけでこれらを得るのは不自然である。よって、賢才を進めたら一錫(九錫の一つ)を得たはずだ。『尚書大伝』には『三適(適切な人材を三度得ること)を有功といい、(九錫全てではなく)車服弓矢を下賜した』とある。」
顔師古も賢才を進めたら一錫を得たという臣瓉の説を正しいと判断しています。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月、江都王劉非(易王)が死にました。
劉非は景帝の子です。
漢書景十三王(巻五十三)』によると、劉非の子劉建が継ぎました。
劉建は後に謀反の罪を責められて自殺するため、諡号がありません。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
武帝に皇子劉據が生まれました。衛夫人の子で戾太子とよばれます(戾は諡号です)
三月甲子(十三日)武帝が衛夫人を皇后に立てました。
 
漢書武五子伝(巻六十三)』の「賛」に「建元六年(前135年)春に戾太子が生まれた」という記述がありますが、『漢書外戚伝上(巻九十七上)』は「元朔元年(本年)、衛子夫が男児據を生み、皇后に立てられた」としており、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は『武五子伝』が誤りと判断しています。
 
武帝が詔を発しました「朕が聞くには、天地が不変なら施化が成らず(万物が生育せず)、陰陽が不変なら物が暢茂(繁殖)しないという。『易』は『変化に通じれば、民を倦ませない(通其変,使民不倦)』と言っており、『詩(逸詩)』も『九変復貫,知言之選(理解が困難です。『漢書』の注に複数の解釈があり、それらを参考にすると、「天地の変化に通じて道を忘れない者は(九変しても道を忘れない者は)、言動の善を知る」または「先王は旧政の弊害を改めるために制度を度々変更し、言動の選択を知っていた(善い方法を選んで実行した)」という意味だと思います)』と言っている。朕は唐虞(堯舜)を嘉して殷周を楽しみ、旧(旧事。故事)を元に鑒(教訓)を知った。よって天下を赦して民と更始(改めて始めること)しよう。孝景後三年(141年。景帝が死んだ年)以前に官から物を借りながら返さずに逃亡して訴訟に及んだ者(諸逋貸及辞訟)は全て裁く必要がない(皆勿聴治)。」
こうして大赦が行われました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代100 武帝(十九) 韓安国 前128年(2)