西漢時代101 武帝(二十) 推恩令 前127年(1)
甲寅 前127年
劉安は高帝の孫で、淮南王・劉長の子です。
『漢書・武帝紀』は「淮南王と菑川王に几杖を下賜して入朝を免じた」と書いており、顔師古曰注は「淮南王・劉安と菑川王・劉志」としていますが、『漢書・諸侯王表』を見ると菑川王・劉志(父は斉悼恵王・劉肥)は元光五年(前130年)に死に、子の劉建(靖王)が跡を継いでいます。『史記・漢興以来諸侯王年表』も同じです。ここで『漢書・武帝紀』が菑川王にも触れているのは誤りです。
主父偃が武帝に言いました「古の諸侯が治める地は百里に過ぎなかったので、強弱の形(形勢)を容易に制御できました。今、諸侯の中には数十の城を連ね、地が方千里に及ぶ者もいます。(朝廷の諸侯に対する制御を)緩めたら、(諸侯は)驕奢になり、容易に淫乱(無道)になります。しかし(制御を)急にしたら(厳しくしたら)、(諸侯は)その強大な力に頼り、合従して京師に逆らいます。法に基づいて割削(削減)したら、逆節(謀反の心)が芽生えます。以前の鼂錯がそれです(景帝前三年・前154年。呉楚七国の乱)。
今、諸侯の子弟は十数を数えることもありますが、適嗣(嫡子)が代わって立つだけで、他の者は骨肉なのに尺地の封もありません。これでは仁孝の道を宣揚できないので、陛下は諸侯に命じて子弟に広く恩恵を施させ(推恩分子弟)、地を与えて封侯するべきです。彼等は皆、願いを得られて喜び、上(陛下)は徳を施すことによって実際は彼等の国を分割し、(諸侯王の領地を)削らなくても徐々に弱くさせることができます。」
武帝はこれに納得しました。
これを「推恩令」といいます。「推恩」は「恩恵を広く施す」という意味です。
ここから藩国を分けて諸侯王の子弟が全て封侯されるようになりました。
春正月、武帝が詔を発して言いました「梁王、城陽王は親慈(親愛)な同生(親族)であり、邑を弟に分けることを願ったので、それを許可する。諸侯王で子弟に邑を与えることを請う者は、朕が自ら閲覧し、列位を有させる。」
『漢書・王子侯表』を見ると、元朔二年(本年)五月と六月に梁共王・劉買の子(平王・劉襄の兄弟)と城陽共王・劉喜の子(頃王・劉延の兄弟)の他にも、菑川懿王の子、趙敬粛王の子、中山靖王の子が封侯されています。合わせて三十人もいるので、詳述は避けます。
菑川懿王は劉志といい、斉悼恵王・劉肥の子です。当時は劉志の子・劉建(靖王)の代になっています(本年冬にも書きました)。
趙敬粛王は劉彭祖、中山靖王は劉勝といい、どちらも景帝の子、武帝の兄です。
匈奴が上谷や漁陽に侵入し、吏民千余人を殺略しました。
匈奴が上谷、漁陽に入り、吏民千余人を殺略しました。
武帝は将軍・衛青、李息を雲中から出撃させました。漢軍は高闕(顔師古注によると山名、または塞名。朔方の北)に至り、西の符離(顔師古注によると漠北の塞名)に及んで首虜(首)数千級を得ました。河南の地が漢の支配下に入りました。
『資治通鑑』に戻ります。
武帝が詔を発して衛青を長平侯に封じました。
衛青の校尉・蘇建と張次公も功があったため、蘇建を平陵侯に、張次公を岸頭侯に封じました。
主父偃が武帝に言いました「河南の地は肥饒(肥沃)で、外は河(黄河)に阻まれているので、蒙恬が城を築いて匈奴を駆逐し、内は転輸戍漕(「転輸」は陸路の輸送。「戍漕」は水路による軍事物資の輸送)を省いて中国を拡げました。これは胡(匈奴)を滅ぼす本(基本。根本の方法)です。」
漢代の朔方郡と五原郡は秦代の九原郡にあたります。九原郡の西部が朔方郡、東部が五原郡になりました。
三月乙亥晦、日食がありました。
夏、民を募集して十万人を朔方郡に遷しました。
主父偃が武帝に言いました「茂陵の建造が始まったので(武帝建元二年・前139年)、天下の豪傑や併兼の家(他者を兼併している富豪)、乱衆の民(民衆を扇動している者)を全て茂陵に遷すべきです。内は京師を充実させ、外は姦猾を消滅させることができます。これが『誅さなくても害が除かれる(不誅而害除)』というものです。」
武帝はこれに従いました。
郡国の豪傑(豪族)や訾(財産)三百万銭以上の者が茂陵に遷されます。
軹の人・郭解も関東の大俠として知られており、移住を命じられました。
衛将軍(衛青)が郭解をかばって言いました「郭解の家は貧しいので、移住の基準には合いません(不中徙)。」
こうして郭解の家も遷されました。
郭解は普段から人に睨まれたというような些細な事でも多くの人を殺してきました。
軹のある儒生が朝廷の使者と一緒に坐っていた時、郭解の客(賓客。門客)が郭解を称賛しました。すると儒生はこう言いました「郭解は姦犯公法(国法を犯すこと)を専らにしてきた。なぜ賢というのだ。」
それを聞いた郭解の客が儒生を殺して舌を切断しました(朝廷の使者がいない時に襲ったようです)。
官吏はこの事件を元に郭解を譴責しました。しかし郭解は人を殺した犯人を知らず、犯人も最後まで解明されませんでした(犯人が捕まりませんでした。郭解を称賛した客と儒生を殺した犯人は別人だったようです)。
官吏は郭解に罪がないと上奏しました。
しかし公孫弘が反対して言いました「郭解は布衣(庶民)ですが任俠を為して権力を行使し、睚眦(睨むこと)を理由に人を殺しました。郭解が(犯人を)知らなかったとしても、この罪は郭解本人が殺すより重大です。大逆無道の罪に当てるべきです。」
郭解は族滅されました。
『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、荀悦の『前漢紀(孝武皇帝紀・巻第十)』は郭解の事件を武帝建元二年(前139年)に書いています。建元二年は茂陵邑が置かれた年で、三年には茂陵に遷された者に銭が下賜されています。しかし当時は衛青も公孫弘も高い官職に就いていません。元朔二年(本年)に郡国の豪傑が茂陵に遷されたので、『資治通鑑』はここで郭解の事を書いています。
次回に続きます。