西漢時代102 武帝(二十一) 主父偃の死 前127年(2)
燕王・劉定国(高帝の親族・劉澤の孫)は父・康王(劉嘉)の姫(妾)と姦通したり、弟の妻を奪って姫にしました。
郢人の兄弟が上書して劉定国を訴えます。
主父偃がこの事件を朝廷で発表すると、公卿は劉定国の誅殺を請いました。武帝はこれに同意します。
秋、劉定国は自殺し、燕国が廃されました。
斉王・劉次昌(厲王。高帝の子・悼恵王・劉肥の曾孫。父は懿王・劉寿、祖父は孝王・劉将閭)も姉の紀翁主(翁主は諸侯王の娘です)と姦通しました。
紀太后は紀氏の寵貴を強固にしたかったため、自分の長女・紀翁主(斉王の姉)を王宮に入れさせました。しかも斉王が紀氏の女だけを愛することを欲し、後宮を整備して他の姫妾が王に近づけないようにします。こうして斉王は姉の紀翁主と姦通するようになりました。
『資治通鑑』に戻ります。
主父偃は自分の娘を斉王に嫁がせたいと思いましたが、斉の紀太后が同意しませんでした。
そこで主父偃が武帝にこう言いました「斉の臨菑(都)は十万戸を擁し、市租(市から得る税収)は千金に上り、人が多くて物も豊かで(人衆殷富)、長安より巨大です。天子の親弟(実の弟)か愛子でなければ、この地の王になるべきではありません。しかし今の斉王は親属の関係がますます疎遠になっており、しかも自分の姉と乱倫していると聞きました。これを治める(罪を正す)ことを請います。」
武帝は主父偃を斉相に任命し、斉王の過ちを正させることにしました。
斉王は恐れて毒薬を飲み、自殺してしまいました。
斉王・劉次昌には跡継ぎがいなかったため、斉国は廃されました。
主父偃は若い頃に斉、燕、趙で周遊しました。
高貴な地位を得てから燕と斉が続けて廃されたため、趙王・劉彭祖(景帝の子)が恐れて武帝に上書しました。その内容は、主父偃が諸侯から賄賂を受け取っていたため、諸侯の子弟の多くが封侯を得ることになったというものです。
斉王の自殺が朝廷に報告されると、武帝は主父偃が斉王に自殺を強要したと思い、激怒しました。
主父偃を呼び戻して吏(獄吏)に下します。
主父偃は諸侯から賄賂を受け取ったことは認めましたが、斉王に自殺を強要したことは否定しました。
武帝は主父偃の誅殺を免じようとします。しかし公孫弘がこう言いました「斉王は自殺し、後嗣がいないため国が除かれて郡となり、漢に入れられました。元々、主父偃が首悪です。陛下が偃を誅殺しなかったら、天下に謝罪できません。」
こうして主父偃は族滅されました。
武帝が蓼侯・孔臧を御史大夫に任命しようとしましたが、孔臧はこう言いました「臣は代々経学を業としているので、太常になって臣の家業を主持し、従弟の侍中・安国と古典を整理して(綱紀古訓)、後世に永遠に継承させる(永垂来嗣)ことを請います。」
孔藂の子・孔臧が蓼侯を継ぎましたが、太常になってから南陵橋が壊れて衣冠車が川を渡れなかったため、責任を問われて国を廃されました。
「衣冠車」というのは高帝の衣冠を運ぶ車です。毎年、高帝の陵墓から宗廟に衣冠を運ぶ儀式が行われました。これを「游衣冠」といいます。
太常は宗廟の祭祀や儀礼を掌る官なので、孔臧が儀式の不手際に対して責任を負うことになりました。
再び『資治通鑑』胡三省注からです。
侍中は禁中に出入りして天子に侍る官で、比二千石です。侍中、左蟬、右貂は本来、秦丞相の史(補佐官)として殿内を行き来し、分担して乗輿・服物から褻器虎子(沐浴の道具や便器)の類まで管理しました。
孔子は伯魚・鯉(鯉が名、伯魚は字)を生み、孔鯉は子思・伋(伋が名)を生み、孔伋は子上・帛(帛が名。または「孔白」)を生み、孔帛は子家・求(求が名)を生み、孔求は子真・箕(箕が名)を生み、孔箕は子高・穿(穿が名)を生み、孔穿は孔順(子慎)を生みました。孔順は魏国の相になりました。
孔順が孔鮒を生み、孔鮒は陳渉の博士になって陳で死にました。
孔鮒の弟の子襄が恵帝の博士と長沙王の太傅になりました。
子襄が孔忠を生み、孔忠が孔武と孔安国を生みました。
この後、孔武は孔延年を生み、孔延年は孔霸を生みます。孔覇の字は次孺です。
孔霸は孔光を生みました。字は子夏で、孔子の十四世孫とされています。
次回に続きます。