西漢時代103 武帝(二十二) 張騫 前126~125年

今回は西漢武帝元朔三年と四年です。
 
西漢武帝元朔三年
乙卯 前126
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬、匈奴の軍臣単于が死に、弟の左谷蠡王伊稚斜が自立して単于になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴には左右賢王の下に左右谷蠡王がいました。
 
伊稚斜単于が軍臣単于の太子於単を攻めて破り、於単は漢に降りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
公孫弘を御史大夫に任命しました。
 
当時は西南夷との交通が通じたばかりで、東には蒼海郡を置き、北にも朔方の郡城を築きました。
公孫弘はしばしば武帝を諫め、無用の地のために中国(中原)を疲弊させているとして廃止を願いました。
武帝は朱買臣等に命じ、朔方郡を置く利便を説いて公孫弘に反論させました。朱買臣等が十策(十の見解)を発表しましたが、公孫弘は一つにも応じることができません。
公孫弘が謝罪して言いました「山東の鄙人(田舎者)には(朔方に)そのような便があるとは理解できませんでした。西南夷と蒼海の経営を中止し、朔方経営に集中することを願います。」
武帝はこれに同意しました。
 
春、蒼海郡を廃しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
公孫弘は布被(布の布団)を使っており、食事も複数の肉を置きませんでした(食不重肉)
汲黯が言いました「公孫弘の位は三公にあり、奉禄が甚だ多いのに、布被を使っています。これは詐(欺瞞)です。」
武帝が公孫弘に問うと、公孫弘は謝罪してこう言いました「確かにその通りです(有之)。九卿の中で臣と仲が善い者で、黯(汲黯)を越える者はいません。しかし今日、(汲黯が)(私)を廷詰(朝廷で詰問譴責すること)しました。誠に弘(私)の病(問題。欠点)を言い当てています。三公の身でありながら布被を使って小吏と差が無いのは、飾詐して(偽り飾って)釣名(名を挙げること)を欲していたからです。汲黯の言う通りです。そもそも汲黯の忠がなかったら、陛下はどうしてこの言を聞くことができたでしょう。」
武帝は公孫弘を謙譲(謙虚)だと思い、ますます尊重しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、武帝が詔を発しました「刑罰とは姦(犯罪)を防ぐためにあり、内に文を長じるのは(文徳を尊崇するのは)(仁愛)を示すためである。百姓がまだ教化に融和できていないので、朕は士大夫と共にその業を日々新たにし(日新厥業)、勉めて惰らないこと(祗而不解)を嘉する。よって天下を赦す。」
こうして大赦が行われました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月丙子(初七日)、漢に降った匈奴の太子於単を渉安侯に封じましたが、於単は数カ月後に死にました。
 
[] この年、西域を旅して大月氏を訪ねた張騫が帰還しました。『資治通鑑』と『漢書張騫李広利伝(巻六十一)』からです。
以前、匈奴から漢に降った者がこう言いました「月氏はかつて敦煌と祁連の間に住む強国でしたが、匈奴の冒頓が攻め破り(西漢高帝六年201年参照)、老上単于月氏王を殺してその頭を飲器にしました。月氏の)余衆は遁走して遠くに去り、匈奴を怨んでいますが、共に匈奴を)撃つ者がいません。」
資治通鑑』胡三省注によると、敦煌と張掖は匈奴月氏を破った時、昆邪王(渾邪王)に支配させました。昆邪王は武帝元狩二年(前121年)に漢に降り、後に漢が敦煌と張掖に郡を置きます。
祁連は張掖の西北に位置する山で、天山ともいいます。匈奴が天を祁連と呼んでいました。
 
武帝月氏と結んで匈奴を挟撃するために、使者として月氏に行ける者を募りました。
漢中の人張騫が郎の身分で募集に応じます。
 
張騫は隴西から出発しました。堂邑氏の奴甘父と百余人が従っています。
漢書』の注釈によると、「堂邑」は漢人の姓で、甘父はこの家に仕えていた胡人の奴僕です。主の姓をとって「堂邑父」と名乗ることもあります。
張騫が出発したのは建元三年(前138年)頃とされています。
 
張騫一行は匈奴を経由して月氏に向かいました。しかし出発して間もなく、匈奴に捕まってしまい、伝馬で単于(軍臣単于の時代です)に送られました。
単于が言いました「月氏は我々の北にある。漢がどうして使者を送ることができるか。わしが使者を越に送ろうとしたら、漢はわしの自由にするか?」
張騫は十余年間、匈奴に留められました。匈奴は張騫に妻を与え、やがて子もできました。しかし張騫は漢の符節を持ったまま失いませんでした。
 
張騫は匈奴の西部に住んでいました。
ある日、匈奴の隙を突いて属(同行した官属)と共に逃走しました。月氏に向かって西に走り、数十日後に大宛に到着します。
資治通鑑』胡三省注によると、大宛国の都は貴山城で、長安から一万二千五百七十里離れていました。西南の大月氏までは六百九十里あります。
 
大宛は漢の物資が豊富だと聞いており、漢と通じたいと思っていましたが、機会がありませんでした。今回、張騫に出会い、喜んで何を欲しているのか問います。
張騫が言いました「漢の使者として月氏に向かいましたが、匈奴に道を閉ざされ、今こうして逃亡して来ました。王が人を使って私を導送することを願います。もし月氏に至ることができたら、(私が)漢に帰ってから、漢が王に贈る財物は数え切れないほどになるでしょう。」
大宛は納得して張騫を送り出しました。張騫のために道訳(道案内と通訳)もつけます。
一行は康居に入り、康居が張騫等を大月氏に送りました。
漢書西域伝上(巻九十六上)』と『資治通鑑』胡三省注によると、康居国の都は卑闐城で、長安から一万二千三百里離れていました。康居王は冬の間は楽越匿地を治め、夏は蕃内に住みました。
 
月氏では国王が匈奴に殺されてから、太子が新しい王になっていました。
これは『史記大宛列伝(巻百二十三)』と『資治通鑑』の記述です。『漢書張騫李広利伝』は「大月氏の王が殺されて夫人が王に立った」としています。
 
月氏大夏を破って臣従させ、その地を割いて安住していました。
資治通鑑』胡三省注によると、大夏国は大宛の西南に位置し、都は嬀水南です。月氏は嬀水北に住みました。
 
月氏が移住した土地は肥沃で外敵も少ないため、既に人心が安んじて楽しんでいました。しかも漢は遠く離れているため、漢と協力して匈奴に報復しようという気持ちはありません。
 
張騫は大月氏から大夏にも行きましたが、成果を得られず、一年余留まってから帰路に就きました。
南山に沿って進み、羌の地を通って漢に向かいます。
しかしまた匈奴に捕まってしまいました。
更に一年余して単于が死に、匈奴で内乱が起きました(本年冬、匈奴の軍臣単于が死に、弟の伊稚斜が自立して太子於単を攻めました)
張騫は匈奴人の妻や堂邑父(甘父)と共に逃亡しました。
 
武帝は帰還した張騫を太中大夫に、甘父を奉使君にしました。
 
張騫は忍耐強くて意志が固く、しかも寬大で人に対して信義があったため、異民族にも愛されました。
堂邑父は射術が得意で、困窮したら禽獣を射て食糧を供給していました。
張騫が出発した時は百余人が従いましたが、十三年を経て帰った時は張騫と堂邑父の二人だけになっていました。
 
張騫は大宛、大月氏大夏、康居を歴訪し、周辺にある五、六の大国についても情報を得ました。それらの地形や産物を詳しく武帝に報告します。
その内容は『漢書西域伝』に記録されています。
張騫の報告はこの後の西域経営に大きく役立ちました。
 
尚、『史記西南夷列伝(巻百十六)』に「元狩元年(前122年)に博望侯張騫が大夏から帰った」とあります。しかし『史記建元以来侯者年表』と『漢書景武昭宣元成功臣表』では元朔六年(前123年)三月甲辰に張騫が博望侯に封じられているので、元狩元年に帰ったというのは誤りです(『資治通鑑』胡三省注参考)
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴の数万騎が入塞し、代郡太守(姓氏は不明です)を殺して千余人を奪いました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月庚午(初二日)、皇太后王氏武帝の母)が死にました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋、西夷の経営をあきらめて南夷と夜郎に二県一都尉を置きました。
後に犍為郡(南夷。夜郎道周辺)に命じて自らの力で葆就させました。
「葆就」というのは守備と建設を意味します。犍為郡に郡県の守備と建設を任せたのは、朝廷が朔方郡城の建設に専念するためです。公孫弘の意見が採用されたことになります。
 
尚、『漢書武帝紀』はここで「朔方城を築いた」と書いていますが、朔方郡城の建設は既に始まっていたはずです。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
民に五日間の大酺(大宴)を命じました。
 
[十一] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈如がまた雁門に侵入して千余人を殺略しました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
この年、中大夫張湯が廷尉になりました。
張湯は狡猾な人物で、巧智をめぐらして他者を御しました。
張湯は武帝時代を代表する酷吏なので、別の場所で詳しく書きます。

西漢時代 張湯

 


西漢武帝元朔四年
丙辰 前125
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、武帝が甘泉に行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、匈奴が代郡、定襄、上郡に入りました。それぞれ各三万騎です。漢人数千人を殺略しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代104 武帝(二十三) 匈奴討伐 前124年