西漢時代104 武帝(二十三) 匈奴討伐 前124年(1)

今回は西漢武帝元朔五年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元朔五年
丁巳 前124
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十一月乙丑(初五日)、丞相薛澤を罷免しました。
公孫弘が丞相に任命され、平津侯に封じられました。
 
資治通鑑』は『史記漢興以来将相名臣年表』を元にしており、本年(元朔五年)に公孫弘が丞相になって封侯されています。
漢書公卿百官表下』でも公孫弘は本年に丞相になっています。
しかし『史記建元以来侯者年表』では元朔三年(126)十一月乙丑を献侯公孫弘の元年としており、『漢書恩沢侯表』でも元朔三年に封侯されています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「五年」を「三年」に書き間違えたと解説しています。
 
漢代の通例では列侯を丞相に任命していましたが、公孫弘は丞相になってから封侯されました。ここから丞相になったら封侯されるという慣習が生まれました。
 
当時、武帝は功業(大業)を興していました。そこで公孫弘は東閤(東向きの小門)を開いて賢人を招き、謀議に参与させました。朝議で上奏する時は、国家の便宜になることを発言し、これに対して武帝は左右の文学の臣に命じて論難させました。
ある時、公孫弘が上奏しました「十人の賊が弩を引き絞ったら百吏も前に進めなくなります。民による弓弩の携帯を禁止し、(治安の)便とすることを請います。」
武帝がこれについて議論させました。
侍中吾丘寿王が反対して言いました「臣が聞くには、古の者が五兵(五種類の兵器。矛戈)を作ったのは、互いに害しあうためではなく、暴を禁じて邪を討つためでした。秦は天下を兼併してから甲兵を溶かし(銷甲兵)、鋒刃を折りました。しかし後に民は耰鉏(農具)、箠梃(鞭や杖、棍棒で互いに撻撃(笞打ち、殴打)し、法を犯す者がますます増えて盗賊は数え切れないほどになりました。その結果、乱によって滅亡したのです。だから聖王は教化に務めて禁防(禁令による防犯)を省きました。それが頼るに足りないことを知っていたからです。『礼』にはこうあります『男子が生まれたら桑弧(桑の木で作った弓)、蓬矢(蓬の草で作った矢)をもって挙げる(原文「男子生,桑弧、蓬矢以挙之」。『資治通鑑』胡三省注によると、国君の世子が生まれたら三日後に射人が桑弧蓬矢を使って天地と四方に向けて六矢を射ました。天地四方は男子が事業を行う範囲を表します)。』こうして(男の)事業があることを明示したのです。大射の礼は天子から降って庶人に及びました(天子から庶人に及ぶまで大射の礼を守りました)。これは三代(夏周)の道です(『資治通鑑』胡三省注によると、古の天子は豹侯(豹が描かれた的。「侯」は「的」の意味です)を射ち、諸侯は熊侯を射ち、卿大夫は麋侯を射ち、士は鹿侯()侯を射ちました。また、郷射の礼を行って衆庶(民衆)に意見を求めました)。愚()が聞いたところでは、聖王は合射(恐らく「大射の礼」)によって教えを明らかにしました。弓矢を禁じたとは聞いたことがありません。そもそもそれを禁じるのは盗賊がそれを使って攻奪(人を襲ったり物を奪うこと)するのを防ぐためです。攻奪の罪は死に値しますが、止めることができないのは、大姦(極悪な犯罪者)は重誅(死刑)に対して元々避けようとしないからです(大姦は死罪も恐れないからです)。臣は邪人がそれ(武器)を携帯して吏が(邪人の暴力を)止められず、良民が自ら備えて法禁(禁令)に触れることになるのではないかと恐れます(武器の携帯を禁じるのは盗賊が武器を利用するのを防ぐためですが、元々盗賊は死刑も恐れないので、禁令を守るはずがありません。官吏は盗賊が武器を持っていても取り締まる力がなく、逆に民衆が自衛のために武器を持ったら禁令を犯したことになってしまいます)。これは賊の威をほしいままにさせて民の救いを奪うことなので、臣は大きな不便をもたらすことになると考えます。」
奏書が提出されてから武帝が公孫弘に意見を問うと、公孫弘は屈服して反論できませんでした。
 
公孫弘は元から猜疑と嫉妬の心が強く(性意忌)、表面上は寛大を装っていましたが、内面は厳酷でした(外寬内深)
公孫弘は自分と間隙がある者に対して、関係の遠近に関わらず、外見上は友好的な態度を示しても後には必ず報復しました。
 
董仲舒は廉直な人物で、公孫弘を従諛(阿諛追従)の人とみなしていました。
そのため公孫弘は董仲舒を嫌いました。
膠西王劉端(景帝の子)は驕恣(驕慢横柄)な人物で、しばしば法を犯しており、二千石の官員で殺傷された者も多数いました。
そこで公孫弘は敢えて董仲舒を膠西相に推薦しました。董仲舒(膠西相になって暫くしてから)病のため官を辞します。
 
汲黯はしばしば儒者を非難しており、公孫弘に公然と逆らったことがありました。
公孫弘は理由を探して汲黯を誅殺したいと思い、武帝にこう言いました「右内史界部(右内史の管轄地)の中には貴臣、宗室が多く、治めるのが難しいので、素重臣(普段から威望がある重臣でなければ任せられません。汲黯を右内史に遷すことを請います。」
武帝はこれに従いました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。 
春、大旱に襲われました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴の右賢王がしばしば朔方を侵しました。
武帝は車騎将軍衛青に三万騎を指揮して高闕(朔方郡北部)から出撃させ、衛尉蘇建を游撃将軍に、左内史李沮を強弩将軍に、太僕公孫賀を騎将軍に、代相李蔡を軽車将軍に任命して、全て車騎将軍に属させました。諸将は朔方から出撃します。
また、大行李息と岸頭侯張次公を将軍にして右北平から出撃させました。
合計十余万人が匈奴を撃ちます。
 
ここで『資治通鑑』が書いている兵数は理解が困難です。
漢軍の合計は十余万人で、そのうち衛青が率いている朔方方面軍が三万騎なので、残りは李息等の右北平方面軍が指揮していたように思えます。
しかし『漢書武帝紀』では「大将軍衛青が六将軍と兵十余万人を指揮して朔方、高闕を出た」としているので、十余万というのは衛青が率いた数のようです。『武帝紀』は李息と張次公に触れておらず、三万という兵数も書かれていません。『漢書匈奴伝上(巻九十四上)』も同じ内容です。
ところが『漢書衛青霍去病伝(巻五十五)』を見ると「衛青に三万騎を指揮して高闕から出撃させ、衛尉蘇建を游撃将軍に、左内史李沮を彊弩(強弩)将軍に、太僕公孫賀を騎将軍に、代相李蔡を軽車将軍に任命して、全て車騎将軍に属させた。諸将は朔方から出撃した。大行李息と岸頭侯張次公を将軍にし、そろって右北平から出撃させた」とあり、『資治通鑑』の記述とほぼ同じです。但し「十余万」という兵数は書かれていません。
どの記述が正しいのかは分かりません。
 
匈奴の右賢王は漢兵が遠く離れているので攻めて来ることはできないと思い、酒を飲んでいました。
衛青等の兵は塞を出て六七百里進み、夜に到着して右賢王を包囲します。
右賢王は驚いて夜の間に逃走しました。壮騎数百だけを率いて包囲を突破し、北に向かいます。
漢軍は右賢裨王(小王。副将)十余人と匈奴の衆男女一万五千余人、家畜数十百万(数十万から百万)を奪い、兵を率いて帰還しました。
 
尚、『漢書武帝紀』はこの遠征の戦果を「首虜一万五千級を獲た」としています。「級」と書いているので、捕虜にしたのではなく「首を斬った」と読めます(「首虜」は「首級と捕虜」を指す場合と、単に「首級」を指す場合があります。『漢書武帝紀』は「首級」の意味ですが、『資治通鑑』は「得右賢裨王十余人、衆男女万五千余人」としているので、「捕虜にした」という意味になります)
 
塞まで帰った時、武帝が大将軍印を持った使者を派遣し、軍中で衛青を大将軍に任命しました。諸将は全て衛青の下に属すことになります。
 
夏四月乙未(初八日)武帝が衛青に八千七百戸を加封し、更に衛青の三子にあたる衛伉、衛不疑、衛登も列侯に封じることにしました。
衛青が頑なに辞退して言いました「臣は幸にも行間(軍中)で尽力する機会を与えられ(原文「幸得待罪行間」)、陛下の神霊のおかげで軍が大捷(大勝)しました。全て諸校尉による力戦の功です。幸いなことに臣青は既に陛下から益封されました。臣青の子はまだ襁褓の中におり、勤労がありません。上(陛下)が地を裂いて三侯に封じるのは、臣が軍中で尽力することで(臣待罪行間)戦士に力戦を勧めている本意ではありません(功労がない自分の子を封侯したら、自ら尽力して戦士に力戦を奨励している本意から外れてしまいます)。」
武帝が言いました「わしは諸校尉の功を忘れたわけではない。」
こうして諸将が封侯されました。以下、『資治通鑑』と『史記建元以来侯者年表』からです。『漢書景武昭宣元成功臣表』では一部封侯の日が異なりますが、詳述は避けます。
四月丁未(二十日)、護軍都尉公孫敖を合騎侯に、都尉韓説を龍侯に武帝元封元年・前110年に再述します)、公孫賀を南(または「南侯」)に、李蔡を楽安侯(または「安楽侯」)に、校尉李朔を渉軹侯(または「陟軹侯」「軹侯」)に封じました。
同日、衛青の三子も封侯されました。衛伉は宜春侯、衛不疑は陰安侯、衛登は発干侯です。
また、四月乙卯(二十八日)には趙不虞が隨成侯に、公孫戎奴が従平侯に封じられました。
李沮、李息と校尉豆如意(または「竇如意」)も関内侯の爵位を与えられました(三人の封爵の日は分かりません)
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代105 武帝(二十四) 淮南王と衡山王 前124年(2)