西漢時代105 武帝(二十四) 淮南王と衡山王 前124年(2)

今回は西漢武帝元朔五年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
衛青は尊貴寵愛を得て群臣で並ぶ者がいなくなりました。公卿以下、百官が腰を低くして尊重します。しかし汲黯だけは対等の礼で接しました。
ある人が汲黯に言いました「天子自ら群臣が大将軍の下になることを望んでいます。大将軍は尊く重要な地位にいるのですから、君も拝さないわけにはいきません。」
汲黯はこう言いました「大将軍の立場で揖客(拝礼せず、揖礼しか行わない客)がいたら、逆に尊重されなくなるというのか(身分が髙くても士を礼遇できる者の方が尊重されるのではないか)。」
それを聞いた衛青はますます汲黯の賢才を慕い、しばしば国家や朝廷の疑事について相談しました。今までよりも汲黯を尊重するようになります。
 
大将軍衛青は尊貴な地位に立ちましたが、時には宮中で武帝に侍りました。武帝は寝床の縁に坐ったまま衛青に会います(踞厠而視之。「厠」は「側」に通じ、ここでは寝床の縁を意味します。相手を尊重していない態度です)
丞相公孫弘が燕見(皇帝が暇な時に会うこと)した時は、武帝が冠を被っていないこともありました。
しかし汲黯が会いに行った時は、武帝は冠を被っていなければ会いませんでした。
ある日、武帳(武器を並べた場所を囲む帷帳。または武士の像が描かれた帷帳)の中にいる武帝に汲黯が会いに行って上奏しました。この時、武帝は冠を被っていなかったため、遠くに汲黯を見つけると帳の中に隠れ、人を送って上奏を批准しました。
武帝はこれほど汲黯を敬って礼を用いていました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、武帝が詔を発しました「民を導くには礼を用い、教化(原文「風」。「風化」「教化」の意味です)するには楽を用いるという。しかし今は礼楽が崩壊しており(礼壊楽崩)、朕は甚だこれを憂いているので、広く天下の方聞の士(『漢書』顔師古注によると、「方」は「道」、「聞」は「博聞」を指し、「道があって博聞の士」という意味になります。または、「方」は「方正」の意味です)を招き、全て朝廷に推薦させた。礼官には学問を推奨して洽聞(博聞。広い知識)を講義し、遺失(失われた学問)を挙げて礼を興し、天下の先(見本)となることを命じる。太常は博士に弟子を置くことを議し(方聞の士を博士の弟子にすることを議論し)、郷党の化(教化)を崇めて賢材を奨励させよ。」
 
丞相公孫弘等が上奏しました「博士官のために弟子五十人を置き、彼等の賦役を免じること(復其身)を請います。彼等の高下(高低)を分けて郎中、文学(文学の士)、掌故(古い典籍を管理する官)を補います。その中に秀才異等(通常とは異なる秀才)がいたらその名を全て報告させ、学問に従事しなかったり下材(無能)な者がいたら全て排除します。また、吏(官吏)で一芸以上のことに精通している者は、全て選び出して右職(高官)に抜擢することを請います。」
武帝はこれに同意しました。
この後、公卿大夫から士、吏に至るまで、多数の文学の士が集まり、学者がますます増えていきました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋、匈奴の一万騎が代に侵入し、都尉朱英を殺して千余人を奪いました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、淮南王劉安は読書や文を書くことが好きで、名誉(名声)を立てたいと思っていたため、賓客や方術の士数千人を各地から集めました。群臣や賓客の多くは江(長江と淮水)一帯の軽薄な士が占め、しばしば厲王劉長(劉安の父)が流浪の途中で死んだ事(文帝前六年174年)を語って劉安を刺激しました。
建元六年(前135年)に彗星が現れた時、ある人が淮南王にこう言いました「以前、呉が軍を起こした時も彗星が現れ、その長さは数尺でしたが流血が千里に及びました。今回は彗星が天に連なったので、天下の兵が大起するはずです。」
淮南王は心中でその通りだと思い、攻戦の道具を整えて金銭を蓄えました。
 
淮南王国の郎中雷被が淮南王の太子劉遷の罪を得ました。
資治通鑑』胡三省注によると、雷氏は古の方雷氏黄帝の妻)の子孫です。
 
漢書淮南衡山済北王伝(巻四十四)』に太子と雷被の事が書かれています。
太子は剣術を学んでおり、他の者は自分に敵わないと思っていました。郎中雷被が剣術に精通していると聞き、雷被を召して試そうとします。雷被は再三辞退しましたが、誤って太子を撃ってしまいました。そのため太子は怒って雷被を憎み、雷被は恐れるようになりました。
 
資治通鑑』に戻ります。
武帝が詔を下し、全国で従軍を望む者を全て長安に集めました。
雷被は勇を奮って匈奴を撃つことを願いました。
しかし雷被を憎んでいる太子劉遷が淮南王に讒言誹謗したため、淮南王は後人の戒めにするために雷被を譴責して罷免しました。
本年、雷被が長安に逃亡して冤罪を弁明するために上書しました。
武帝はこの一件を廷尉に調査させました。追及は淮南王にも及びます。
公卿は淮南王を逮捕して罪を裁くように請いました。
 
武帝は中尉(『漢書百官公卿表下』では「殷容」が当時の中尉です。「宏」は「容」の誤りかもしれません)を派遣して淮南王を審問させました。
太子劉遷は計を謀り、部下に衛士の服を着させ、戟を持って淮南王の傍に立たせました。もし漢の使者に非是(不当な事。淮南王に敵意を抱くこと)があったらすぐに刺殺し、兵を動員して叛すつもりです。
しかし中尉の顔色が和やかだったため、淮南王は兵を発しませんでした。
 
一方、漢の朝廷では公卿が上奏してこう言いました「安(劉安)匈奴を奮撃しようという者の道を塞ぎ、明詔を行き届かなくしました。棄市に処すべきです。」
武帝は詔を発して淮南王国の二県を削ることにしました。
この決定を聞いた劉安は後悔して「わしは仁義を行ったのに、逆に削地に遭うことになってしまった」と言い、恥辱としました。この後、謀反の考えがますます強くなります。
 
劉安は礼節において衡山王劉賜(劉安の弟)と誹謗し合い、互いに憎んで相容れることがありませんでした。
衡山王は淮南王に背反の謀があると聞き、兼併されることを恐れました。そこで、衡山王も賓客と結んで叛乱の準備を進め、淮南王が西に向かったら兵を発して江淮一帯を平定することにしました。
この頃、衡山王の王后徐来が太子劉爽を王の前で誹謗し、劉爽を廃して弟の劉孝を太子に立てさせようとしました。衡山王は太子を捕えると、劉孝に国王の印を与えて賓客を招かせます。集まった賓客は淮南と衡山に叛逆の計画があると秘かに知っていたため、昼も夜も平然と王に謀反を勧めました。
そこで衡山王は劉孝の客である江都の人枚赫と陳喜に輣車(兵車。楼車)、鍛矢(鋭利な矢)を作らせたり、天子の璽や将相・軍吏の印を彫刻させました。
 
秋、衡山王劉賜が入朝するために淮南を通りました。
淮南王劉安は兄弟として言葉を交わし、今までの対立を除きました。しかも協力して謀反の準備を進めることを約束します。
衡山王が朝廷に上書して病のため入朝できないと伝えたため、武帝は書を下賜して入朝を免じました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代106 武帝(二十五) 霍去病登場 前123年