西漢時代106 武帝(二十五) 霍去病登場 前123年

今回は西漢武帝元朔六年です。
 
西漢武帝元朔六年
戊午 前123
 
[] 『資治通鑑』からです。
春二月、大将軍衛青が定襄から出て匈奴を撃ちました。
合騎侯公孫敖が中将軍に、太僕公孫賀が左将軍に、翕侯趙信が前将軍に、衛尉蘇建が右将軍に、郎中令李広が後将軍に、左内史李沮が強弩将軍になり、全て大将軍に属します。
 
漢軍は数千級を斬首して還り、士馬を定襄、雲中、雁門で休ませました。
 
資治通鑑』はこの時の兵数に触れておらず、戦功も数千級としていますが、『漢書武帝紀』は「大将軍衛青が六将軍と兵十余万騎を率いて定襄を出て、三千余級を斬首した。帰還して士馬を定襄、雲中、雁門で休ませた」と書いています。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
天下に大赦しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、衛青が再び六将軍(二月の六人)を率いて定襄から出撃し、匈奴を撃ちました。首虜(首)一万余を斬ります。
 
資治通鑑』にはありませんが、『漢書武帝紀』は衛青軍が沙漠を渡って大勝した(絶幕大克獲)としています。
 
右将軍蘇建と前将軍趙信は軍を併せて三千余騎で行軍し、単于(伊稚斜単于の軍に遭遇しました。一日余の交戦の末、漢兵はほとんど全滅します。
趙信は元々匈奴の小王で、漢に降ってから翕侯に封じられていました。『史記建元以来侯者年表』では元光四年(前131年)七月壬午、『漢書景武昭宣元成功臣表』では十月壬午に封侯されています。
 
敗北した趙信は匈奴に誘われたため、残った騎兵約八百人を率いて匈奴に降りました。
蘇建は自分の軍が全滅しましたが、脱出して大将軍の陣に帰りました。
 
議郎周霸が衛青に言いました「大将軍が出陣してから未だ裨将(副将)を斬ったことがありません。今、蘇建が軍を棄てたので、彼を斬って将軍の威を明らかにするべきです。」
資治通鑑』胡三省注によると、議郎は郎中令に属し、秩は比六百石です。
 
軍正閎と長史(閎と安は名です。姓氏はわかりません)が言いました「それは違います(不然)。『兵法』にはこうあります『小敵の堅も大敵の擒となる(小部隊がいくら堅強でも、大部隊を相手にしたら最後は破れる。原文「小敵之堅,大敵之禽也」)。』今回、蘇建は数千人で単于の数万に当たり、一日余も力戦しましたが、士が全滅しても敢えて二心を抱かず、自ら帰還しました。それなのに彼を斬ったら、後の者に帰還を禁じるという意思を示してしまいます。斬るべきではありません。」
資治通鑑』胡三省注によると、行軍の際には軍中に軍正を置いて軍法を管理させました。軍正は将軍にも属さず、将軍に罪があったら朝廷に報告します。
大将軍長史は秩千石です。
 
大将軍衛青が言いました「青(私)は幸にも肺腑(皇帝の近臣)という立場によって軍中で尽力する機会を与えられているので(待罪行間)、威がないことは憂いとしない。しかし霸(周覇)は私に威を明らかにするように勧めた。これは甚だ臣の意を失している(臣下となる者の本分を失っている)。また、たとえ臣に将を斬る職権があったとしても、臣としての尊寵をもってしたら(臣下として陛下に尊重寵信を受けている立場で)敢えて境外で勝手に誅殺することはできない。この事は全て天子に帰し、天子が自ら裁決することで、人臣たる者が敢えて専権しないことを示すべきではないか。」
軍吏は皆「その通りです(善)」と言って賛成し、蘇建を捕えて行在所(皇帝がいる場所)に送りました。
 
以前、平陽の県吏霍仲孺が平陽侯の家に仕え、衛青の姉衛少児と私通しました。衛少児は霍去病を生みます。
資治通鑑』胡三省注によると、霍氏は国名から生まれた氏です。
 
霍去病は十八歳の時に侍中になりました。
騎射に精通しており、大将軍衛青に従って二回匈奴を撃ちました。
二回目の遠征では票姚校尉(または「票鷂校尉」)に任命され、軽騎の勇士八百人と共に大軍(漢の本営)から数百里も離れて利を追い続け、斬捕した首虜の数は霍去病が率いる部隊の人数を上回りました(または「漢軍の損失を補うほどでした」。原文「斬捕首虜過当」)
武帝が言いました「票姚校尉去病は首虜二千余級を斬り、相国、当戸を得て、単于の大父行(祖父の代の親族)藉若侯(産が名)を斬り、季父(叔父)羅姑を生け捕りにした。二回続けて(功が)軍に冠したので(軍中で最も大きな功を立てたので。原文「比再冠軍」)、去病を冠軍侯に封じる。上谷太守郝賢は四回大将軍に従い、捕斬した首虜は二千余級に上る。賢を封じて衆利侯にする。」
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴には左右大当戸がいました。左右大都尉の下、左右骨都侯の上です。
郝氏は殷商王朝の帝乙の子期が太原郝郷に封じられ、その子孫が地名を氏にしました。
 
史記建元以来侯者年表』および『漢書景武昭宣元成功臣表』『外戚恩沢表』によると、霍去病が封侯されたのは四月壬申、郝賢は五月壬辰のことです。
 
この年は二将軍の部隊が全滅し、翕侯趙信が匈奴に逃走しました。軍功が多くなかったため、大将軍衛青には益封せず、千金を下賜しただけでした。
 
右将軍蘇建が長安に戻りました。武帝は蘇建を誅殺せず、贖罪させて庶人に落としました。
 
一方、匈奴の伊稚斜単于は帰順した翕侯趙信を自次王単于の次に尊重されるべき王)に立てて自分の姉を嫁がせ、漢に対抗する策を謀りました。
趙信は更に北に移動して沙漠を越えるように進言しました。『資治通鑑』胡三省注によると、陰山以北は全て草木が生えない大漠(沙漠)になります。
趙信の策は、匈奴は辺塞に近づかず、遠く離れることで漢兵を誘い出し、漢兵の疲労が極限に達した時に攻略するというものです。
単于はこの計に従いました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
当時、漢は連年十余万の衆を動員し、匈奴を遠征していました。首虜を斬捕した将士に下賜された黄金は二十余万斤に上り、漢軍の士馬で死んだ者も十余万を数えます。兵甲(武器甲冑)や転漕(食糧等の輸送)の費用を含まなくても既に莫大な出費になりました。そのため、大司農が管理する費用が底をつき、戦士の褒賞や軍費が足りなくなりました。
 
六月、武帝が詔を発しました「朕が聞くには、五帝は礼(礼制、規則)を繰り返さず、三代は法を同じくせず、それぞれが通った道は異なるが、建てた徳は一つだったという。孔子は定公(魯)に対して『徠遠(辺境の民を帰順させること。元は「悦近徠遠」「近悦遠来」。近くの民を喜ばせて遠くの民も帰順させること。恩恵を施して人心を得るという意味です)』を説き、哀公(魯)には『論臣(賢人を臣下として用いること)』を説き、景公(斉)には『節用(倹約、節財)』を説いた。これは要求したものが同じではなかったからではなく、急務とするべきことが異なっていたからである。今、中国は一統(統一)されたが、北辺はまだ安定していないので、朕は甚だ心を痛めている。過日、大将軍が朔方を巡り、匈奴を征して首虜一万八千級を斬った(恐らく昨年の遠征です)。よって禁錮されている者および過失を犯した者は、全て厚賞を蒙って罪の免減を得ることにする(罪を犯した者も厚賞として刑を免除・軽減する)。今回、大将軍がまた勝利を得て首虜一万九千級を斬った。しかし爵賞爵位や賞賜)を受けてそれを移売(転売)したいと思っている者も流貤(転移。転売)ができないので、これを議して令を定めよ。」
この詔の内容は『漢書武帝紀』を元にしました。『史記平準書』にも記述されていますが、内容が異なります。以下、『史記』からです「朕が聞くには、五帝の教えは繰り返されなかったが(天下は)治まり、禹(夏)(商)の法は道が同じではなかったがどちらも王となった。それぞれが通った路は違ったが、建てた徳は一つだったのである。今、北辺がまだ安定していないので、朕ははなはだ心を痛めている。過日、大将軍が匈奴を攻めて首虜一万九千級を斬ったが、富者は財を蓄積しているのに、貧者は食べる物もない(留蹛無所食)。よって、民が爵位を買い、金銭によって禁固を贖って罪を免減できる法令を議せ。」
有司(官員)は武功賞官(武功爵。下述)を置いて戦士を恩寵することを請いました。
 
漢書武帝紀』と『資治通鑑』に戻ります。
こうして、民が爵位を買うこと、禁錮の刑を金銭で贖罪すること、金銭を払って臧罪(貪汚の罪)を免じることが許されました。
また、「賞官(金銭を払って得る官)」を置いて「武功爵」と称しました。爵一級は十七万(金)で、級が上がるごとに額も上がり、最後は三十余万金になります。
武功爵を買って千夫の爵位に至った者は優先して官吏に任命されました。
資治通鑑』胡三省注によると、武功爵の一級は造士、二級は閑輿衛、三級は良士、四級は元戎士、五級は官首、六級は秉鐸、七級は千夫、八級は楽卿、九級は執戎、十級は政戾庶長、十一級は軍衛といいます。
各級がいくらで、どういう計算をすれば三十余万金になるのかははっきりしません。『資治通鑑』胡三省注にいくつかの説がまとて紹介されていますが省略します。
 
この後、官吏登用の道が複雑かつ多様になり、官職が混乱廃頽しました。
 
 
 
次回に続きます。

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