西漢時代107 武帝(二十六) 白麟 前122年(1)
己未 前122年
『白麟の歌』が作られました。
有司(官員)が言いました「陛下が粛祗(恭敬)として郊祀を行ったので、上帝が享(祭祀。祭物)に報いて一角獣を下賜されたのです。恐らくこれが麟(麒麟。牡を麒、雌を麟といいます。帝王が仁に至った時に現れる吉祥です)というものでしょう。」
久しくして有司(官吏)が言いました「元(帝王の年号)とは天瑞(天が降した瑞祥)によって命名するべきであり、一二といった数字で数えるべきではありません。一元は『建』とし、二元は長星によって『光』とし、今の元は郊で一角獲を得たことから『狩』とするべきです。」
この進言によって武帝が年号を建てたといわれています。武帝が即位した年に遡って最初の号は「建元」、次は「元光」とされました。本年は一角獣を得たので「元狩」になります(実際は「元光」と「元狩」の間に「元朔」がありますが、触れられていません)。
但し、『史記・封禅書』を見ると、有司が年号を建てるように進言したのは、文成将軍が死んだ年(元狩四年・前119年)の四年後、または后土祠を建てた年(元鼎四年・前113年)の前年と書かれているので、元鼎二年(前115年)か三年(前114年)になります。その場合は、始めて年号が置かれたのは本年(元狩元年)ではなく、元鼎年間になります。
また、元鼎という年号は宝鼎を得たことを記念して建てられましたが、宝鼎を得るのは元鼎四年の事で、その三年前に元鼎元年に改元するはずはありません。恐らく、元鼎四年に宝鼎を得てから年号が建てられ、即位の年に遡って六年ごとに「建元」「「元光」「元朔」「元狩」「元鼎」という年号が設けられたと考えられています。
また、清代に呉栄光が編纂した『筠清館金石記』では「漢建元戈」から「高陽右軍 建元二年造」という金石の文字を紹介しており、「これは西漢武帝の時の物。歴代年号はここから始まる」と解説しています。これを元に「建元」の時代から既に年号が存在していたとする説もあります。
『資治通鑑』に戻ります。
武帝は他の県を済北王に与えて償いました。
『漢書・淮南衡山済北王伝(巻四十四)』と『資治通鑑』胡三省注によると、劉胡は諡号を成王といい、貞王・劉勃の子で淮南厲王・劉長の孫にあたります。劉長は高帝の子です。済北王国の都は盧で、劉胡の子・劉寛の時代に国が廃されて泰山郡に入れられます(武帝後元二年・前87年)。
次回に続きます。