西漢時代108 武帝(二十七) 二王の乱 前122年(2)

今回は西漢武帝元狩元年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
淮南王・劉安は淮南厲王・劉長の子です。劉長は高帝・劉邦の子で、文帝の時代に蜀に遷され、途中で餓死しました。
 
淮南王劉安は賓客左呉等と日夜叛逆を謀っていました(二年前参照)
資治通鑑』胡三省注によると、斉や衛の公族に左右公子がおり、後にそこから氏が生まれました。魯国には左丘明(『春秋左氏伝』の作者)がいました。
 
淮南王等は輿地図(地図)を視て進軍の経路を決めました。
長安に派遣していた使者が戻ってから偽って「上(陛下)には男児がおらず、漢は治まっていません」と報告すると、淮南王は喜びました。しかし使者が「漢廷は治まっており、男児もいます」と報告すると、淮南王は怒って否定し、妄言だと信じました。
 
ある日、淮南王が中郎伍被を招きました。
資治通鑑』胡三省注によると、伍姓は春秋時代・楚国の伍挙から始まります。
 
淮南王が伍被に謀反の事を相談すると、伍被はこう言いました「王にはどうしてそのような亡国の言があるのですか。臣には宮中に荊棘が生えて露が衣を濡らす様子(宮殿が廃墟になる様子)が見えます。」
淮南王は怒って伍被の父母を逮捕し、獄に繋いでしまいました。
 
三カ月後、淮南王が再び伍被を招いて意見を求めました。
伍被はこう言いました「昔、秦が無道を為し、奢侈暴虐を極めたので(窮奢極虐)、百姓で乱を思う者は十家に六七家もありました。そのため高皇帝が行陣の中(軍中)に起きて天子に立ったのです。これは『相手の過失を利用して隙を窺う(蹈瑕候間)』というもので、秦の衰亡に乗じて動いたのです。今、大王は高皇帝が容易に天下を得たことだけを見て、近世の呉楚を見ようとしません。呉王は四郡(東陽郡、鄣郡、呉郡、豫章郡)の王となり、国は豊かで民も多く(国富民衆)、計を定めて謀を成してから、兵を挙げて西に向かいました。しかし大梁で敗れて東に奔走し、その身は死んで祭祀が絶たれました。これはなぜでしょうか?天道に逆らって時を知らなかったからに他なりません。今の大王の兵を見ると、衆(数)は呉楚の十分の一にもなりません。しかし天下安寧の様子は呉楚の時の万倍にもなります。大王が臣の計に従わないなら、今すぐ大王が千乗の君(国君の地位)を棄てて絶命の書を下賜され、群臣のために先んじて東宮(淮南王の宮殿)で死ぬ姿が見えます。」
淮南王は涙を流して立ち上がりました。
 
淮南王には劉不害という孽子庶子がいました。最も年長の息子でしたが、淮南王は劉不害を愛すことがなく、王后は息子とみなさず、太子劉遷も兄とみなしていませんでした。
劉不害には劉建という子ができました。劉建は能力があり、しかも血気盛んだったため、常々太子劉遷を怨んでいました。
そこで、劉建は太子がかつて漢の中尉(朝廷の使者)を殺そうとしたこと(二年前参照)を密告しました。
武帝はこの件を廷尉に処理させます。
 
それを知った淮南王は憂患を抱いて挙兵を望みました。再び伍被に問います「公が考えるに、呉の興兵(挙兵)は正しかったのか、それとも誤りだったのか(是邪非邪)?」
伍被が答えました「誤りです(非也)。臣は呉王が甚だしく悔やんだと聞いています。呉王が後悔したことを王が為さないように願っています。」
淮南王が言いました「呉は反(叛逆挙兵の方法)を知らなかったのだ。漢将で一日に成皋を通った者は四十余人もいる。今、わしが成皋の口を絶ち、三川(河南。伊川、洛川と黄河が流れる地)の険を拠点にし、山東の兵を招き、その上で事を挙げれば、左呉、趙賢、朱驕如等は皆、九割は成功すると言っている(什事九成)。公だけが禍があって福が無いというのはなぜだ?必ず公が言うように幸を求められないのか?」
伍被が言いました「どうしてもそうしなければならないのなら、被(私)に愚計があります。今の諸侯には異心がなく、百姓には怨気がないので、丞相、御史の請書(天子に請う上奏書)を偽装し、郡国の豪傑高貲(富豪)を朔方に遷して甲卒の動員を増やし、集合の期限を急がせるように求めます。また、詔獄(皇帝の命を奉じて逮捕すること)の書を偽装して、諸侯の太子や幸臣を逮捕させます。こうすれば民が怨んで諸侯が懼れます。そこで辯士を派遣して状況に応じて遊説させれば、十分の一の幸を求めることができるかもしれません。」
淮南王が言いました「これは正しい意見だ(此可也)。しかしわしが思うにはそこまでする必要はない。」
 
淮南王は皇帝の璽や丞相御史大夫将軍軍吏中二千石および周辺の郡太守都尉の印、漢の使者が持つ符節を作りました。
また、部下に罪を得たふりをさせて西(京師)に奔らせました。大将軍衛青に仕えさせ、兵を発する日が来たら衛青を刺殺するという計画が立てられます。
淮南王はこう言いました「漢廷の大臣では汲黯だけが直諫を好み、節を守って義のために死ぬこともできる(守節死義)。彼を非(不正。謀反)によって惑わすのは難しい(難惑以非)。しかし丞相(公孫弘)等を説得するのは、覆っている物を取り払い、木を揺すって葉を落とすように容易な事だ(発蒙振落)。」
 
淮南王が国中の兵を動員しようとしました。しかし相や二千石が反対することを恐れたため、伍被と謀ってまず相や二千石を殺すことにしました。
また、部下に求盗(盗賊を逮捕する官吏)の服を着させ、羽檄(軍事文書)を持って東方から国都に来て「南越の兵が入界(入境)した!」と叫ぶように命じました。これを理由に兵を起こすつもりです。
 
ちょうどその頃、朝廷の廷尉が淮南太子劉遷を逮捕しに来ました。
それを聞いた淮南王は太子と謀って相と二千石を招き、彼等を殺して挙兵することにしました。
しかし相は招きに応じたものの内史や中尉が出て来ません。
淮南王は相だけを殺しても意味がないと考え、相を帰らせました。
淮南王は躊躇して計画を定められず、その間に太子劉遷が自剄しましたが、命を絶てませんでした。
 
伍被は自ら朝廷の官吏を訪ね、淮南王と叛逆を企てた状況を報告しました。
官吏は太子と王后を逮捕して王宮を包囲し、淮南王と謀反を企んだ国内の賓客を全て捕え、武器等の証拠を捜索して朝廷に報告しました。
武帝は公卿に命じて淮南王の党与を審理させ、淮南王に対しては符節を持った宗正を派遣して処罰させました。
宗正が到着する前に、淮南王劉安は自刎しました。王后荼と太子劉遷は殺され、謀反に関連した者も全て族滅されます。
 
伍被は以前から漢の朝廷を称賛していたため、武帝は伍被を誅殺から免れさせようとしました。
しかし廷尉張湯が「伍被は王のために始めに(告発する前に)反計を画策したので、罪を赦すべきではありません」と言ったため、誅殺されました。
 
侍中荘助は以前から淮南王と交流があったため、私的に論議したり、淮南王が厚い礼物を荘助に贈ったりしたことがありました。武帝はこれらの罪を大事とはみなさず、誅殺しないつもりでした。しかし張湯がまた反対して言いました「荘助は禁門(皇宮)を出入りする腹心の臣でありながら、外は諸侯とこのように私的な交わりを結んでいました。誅殺しなければ今後治めることができません(同じような事を禁止できません)。」
荘助は棄市に処されました。
 
この頃、衡山王劉賜が上書して太子廃立を請いました。太子劉爽を廃して弟の劉孝を立てるつもりです。
それを聞いた劉爽は劉孝を除くために近臣の白嬴(人名)長安に送って上書しました「孝(劉孝)は輣車、鍛矢を作り、王の御者(妃妾。侍女)と姦通しました。」
ちょうど有司(官吏)が淮南王の謀反に関わった者を逮捕し、劉孝の家で陳喜を見つけました(陳喜は劉孝の客ですが、淮南王の謀反にも関係していたようです)。官吏は劉孝が陳喜を匿っていた事を弾劾します。
陳喜は以前から衡山王と謀叛の準備をしており、劉孝はそれが発覚することを恐れました。劉孝は「律の決まりでは、先に自告すればその罪が除かれる」と聞いていたため、衡山王と共に叛逆を謀った枚赫、陳喜等を訴えます。
公卿が衡山王を逮捕して裁くように請い、衡山王は自剄して死にました。
王后徐来、太子劉爽および劉孝は棄市に処され、謀反に関わった者は全て族滅されました。『漢書淮南衡山済北王伝(巻四十四)』によると、自白した劉孝は王の御婢(侍女)と姦通した罪で殺されました。
 
淮南王と衡山王の二獄において連座して殺された列侯、二千石、豪傑等は数万人に及びました。
 
資治通鑑』は明記していませんが、『漢書武帝紀』によると、淮南王劉安と衡山王劉賜が誅殺されて党与数万人が殺されたのは十一月の事です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代109 武帝(二十八) 身毒国 前122年(3)