西漢時代110 武帝(二十九) 霍去病の遠征 前121年(1)

今回は西漢武帝元狩二年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元狩二年
庚申 前121
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が雍に行幸し、五畤を祀りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊寅(初七日)、丞相平津侯公孫弘(献侯)が死にました。
 
壬辰(二十一日)御史大夫楽安侯李蔡を丞相に、廷尉張湯を御史大夫に任命しました。
 
漢書百官公卿表下』は元狩三年(翌年)三月壬辰に廷尉張湯が御史大夫になったとしています。しかし『史記漢興以来将相名臣年表』は本年に書いており、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)も、本年に李蔡が御史大夫から丞相になったのに、来年まで御史大夫空位にするはずがないこと、翌年三月には壬辰の日がないことから、『漢書百官公卿表』の誤りとしています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
霍去病を票騎将軍(驃騎将軍)にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、ここから票騎将軍が生まれました。
 
霍去病は一万騎を指揮して隴西から出撃し、匈奴を撃ちました(恐らく公孫弘が死ぬ前の事です。下述します)。五王国を通って六日間転戦し、焉支山(一名「丹山」)を越えて千余里進みます。
資治通鑑』にはありませんが、『漢書武帝紀』は「驃騎将軍霍去病が隴西を出て皋蘭(山名)に至った」としています。また、『漢書衛青霍去病伝(巻二十五)』には「焉支山を千余里越えて短兵を合わせ(刀剣等で匈奴と戦い)、皋蘭下で奮戦した(原文「鏖皋蘭下」。「鏖」は苦戦して多くの敵を倒すことです)」とあります。
 
霍去病は匈奴の折蘭王を殺し、盧侯王を斬り(『資治通鑑』胡三省注によると、「殺」は殺しただけですが、「斬」は首を獲ったことを意味します)、渾邪王子および相国、都尉を捕え、奪った首虜は八千九百余級に上り、更に休屠王が天を祀るために使う金人も得ました。
資治通鑑』胡三省注によると、折蘭と盧侯は匈奴の国名です。折蘭は匈奴の姓でもあり、後の鮮卑族の蘭姓は折蘭の家系に当たるようです。
匈奴は本来、雲陽甘泉山の下で天を祀っていました。しかし秦が匈奴を撃ってその地を奪ったため、天を祀る場所を休屠王右地に遷しました。そこから休屠王が天を祀る金人像を所有するようになりました。
 
武帝は詔を発して霍去病に二千戸を加封しました。
 
夏、霍去病が再び合騎侯公孫敖と共に数万騎を指揮して北地を出ました。二人は道を分けます。
衛尉張騫、郎中令李広も右北平から出撃し、分かれて進軍しました。
李広は四千騎を率いて先行し、数百里離れて張騫が率いる万騎が続きます。
 
匈奴の左賢王が四万騎を率いて李広を包囲しました。李広の軍士は皆恐れて動揺します。
そこで李広は自分の子李敢に数十騎だけを与え、匈奴騎兵の中を真直ぐ貫通してから左右に進出させました。帰還した李敢が李広に報告しました「胡虜は容易に與せます匈奴の相手をするのは簡単です。原文「胡虜易與耳」)。」
軍士はやっと安心しました。
 
李広は兵を外に向けて円陣を組みました。匈奴が激しく攻撃して雨のように矢を降らせます。漢兵の死者は半数を超え、矢もほとんど尽きてしまいました。
すると李広は士に矢を引かせるだけで放たないように命じ、李広自ら大黄(黄色い強弓)匈奴の裨将を射て数人を殺しました。
匈奴の攻撃が徐々に緩くなります。
日が暮れる頃、漢の吏士は皆、人色(顔色)が無くなりましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、大きな恐怖を抱いているためです)、李広の意気は以前と変わりなく、ますます励んで軍を整えました。全軍がその勇に感服します。
翌日、再び力戦して死者がまた半数を越えましたが、殺した匈奴の数はそれ以上でした。
ちょうど博望侯張騫が到着したため、匈奴軍は包囲を解いて去りました。
漢軍も疲弊していて追撃する力がなかったため、撤兵しました。
 
漢法に基づくなら、張騫は行軍が遅くて期限に間に合わなかったので死罪に値しますが、金銭で贖罪して庶人になりました。
李広軍は多くの兵を失いましたが、相当する匈奴兵も殺したので、賞罰ともなしとされました。
 
尚、『漢書武帝紀』では、李広は匈奴三千余人を殺しましたが、自軍の四千人を全滅させ、単身で逃げ帰りました。そのため、期日に遅れた張騫、公孫敖(下述)と共に死刑の判決が下されましたが、贖罪して庶民になりました。
賞罰とも無しという記述は『漢書李広蘇建伝(巻五十四)』にあり、『資治通鑑』は列伝に従っています。
 
票騎将軍霍去病は二千余里も深入りし、合騎侯公孫敖との連絡が途絶えてしまいました。両軍は合流できなくなります。
霍去病は居延沢(『資治通鑑』胡三省注によると、古の流沙です)を越えて小月氏(南山)を経由し、祁連山に至って単桓王と酋涂王(どちらも匈奴の王)を得ました。匈奴の相国や都尉が衆を挙げて投降し、その数は二千五百人に上ります。また、三万二百級を斬り、裨小王七十余人を捕らえました。
 
武帝は霍去病に五千戸を加封し、裨将(副将)で功があった鷹撃司馬趙破奴を従票侯(または「従驃侯」。票騎将軍に従って功を立てたという意味です。後に国を廃されるため諡号はありません)に、校尉高不識を宜冠侯諡号は不明)に、校尉僕多を煇渠侯(『漢書景武昭宣元成功臣表』では「僕朋」。諡号は忠侯)に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、僕多は匈奴に属しましたが、漢に投降して霍去病に従っていました。
 
尚、『史記建元以来侯者年表』と『漢書景武昭宣元成功臣表』は、高不識の封侯を正月乙亥、僕多の封侯を二月乙丑としており、趙破奴だけが五月丁丑に封じられています。
高不識と僕多は今回(元狩二年夏)の軍功によって封じられたのではなく、本年一回目の遠征(折蘭王と盧侯王を殺した戦い)で功を立てて封侯されたのだと思います。また、『漢書武帝紀』と『資治通鑑』は公孫弘が死んだ三月の後に霍去病の一回目の遠征を書いていますが、高不識と僕多が正月と二月に封侯されているので、実際は公孫弘が死ぬ前に一回目の遠征が行われたはずです。
 
公孫敖は行軍を留めて霍去病と合流できなかったため、斬首の罪に値しましたが、贖罪して庶人になりました。
 
当時、宿将(古くからの将)が率いる将士も馬も武器も全て霍去病に及びませんでした。
霍去病は常に精鋭を率いており、彼本人も敢えて深入りして壮騎と共に大軍の前を進んでいました。また、軍にも天幸があったため、困窮したことがありません。
逆に宿将はしばしば遅れて功を立てられなかったため、霍去病が日に日に親貴(寵信尊貴)を得て大将軍衛青に並ぶようになりました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
夏、余吾水から馬が生まれました。
漢書武帝紀』の注は余吾水を朔方の北の川としています。
 
また、南越が馴象(訓練された象)と能言鳥(言葉を話す鳥。顔師古注によると鸚鵡)を献上しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が代と雁門に入って数百人を殺略しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
江都王劉建(景帝の孫。易王劉非の子。)は父易王が寵幸した淖姫等や妹の徵臣と姦通しました。
資治通鑑』胡三省注は淖姓の先人として戦国時代楚の淖歯を挙げています。
 
かつて劉建が雷陂で遊んだ時、大風が吹きました。すると、劉建は郎二人を小船に乗せて陂()に出しました。船が転覆して二人の郎は池に落ちます。船につかまっている姿が波の中に見えたり隠れたりしました。劉建はそれを眺めながら大笑し、周りの者に助けないように命じます。二人とも溺死しました。
劉建が殺した不辜(無罪)の者は三十五人に上り、淫虐を専らにしました。
しかし自分でも罪が多いことを知っていたため、誅殺を恐れるようになります。そこで王后成光と共に越婢(越の婢女)を使って神を降臨させ、武帝を呪詛しました。
淮南と衡山の陰謀を聞いた時は、劉建も兵器を作り、皇帝の璽を彫刻して挙兵の準備をしました。
やがてこれらの事が発覚したため、有司(官吏)が劉建を逮捕して誅殺するように請いました。
劉建は自殺し、王后成光等は全て棄市に処されて国が除かれました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
膠東王劉寄康王。景帝の子)が死にました。
翌年に再述します。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代111 武帝(三十) 渾邪王の帰順 前121年(2)