西漢時代112 武帝(三十一) 神馬 前120年
辛酉 前120年
春、東方に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
夏五月、天下に大赦しました。
前年、膠東王・劉寄(康王。景帝の子)が死にました。
朝廷の官吏が淮南の事を調査を始めると、ある人が膠東王の事も供述しました。
事件が発覚してから、劉寄は傷心が原因で病になり、死んでしまいました。謀反の罪を犯したので後継者は決めていません(本来、国を廃される立場にいるからです)。
また、劉寄が寵愛していた少子・劉慶を六安王に封じ、衡山王が治めていた地を統治させました。旧衡山国は都が六(地名)だったため、国名が六安に改名されました。
『漢書・景十三王伝(巻五十三)』によると、長子・劉賢の母は劉寄の寵愛を受けておらず、少子・劉慶の母が愛されていたため、劉寄は劉慶を太子に立てたいと思っていました。武帝が少子を封王したのはそのためです。
元相国・蕭何の曾孫・蕭慶を列侯に封じました。
景帝前二年(前155年)に蕭何の子孫について書きました。
蕭何の死後、子の蕭禄(哀侯)が跡を継いで鄼侯になりました。しかし蕭禄には子がいなかったため、蕭禄の死後、高后(呂太后)は蕭何の夫人・同(懿侯)を酇侯に封じました(『史記』年表は「同は禄の弟」と書いていますが誤りです)。
また、蕭何の小子・蕭延を筑陽侯に封じました。
文帝元年(前179年)、蕭何の夫人・同を免じて筑陽侯・蕭延(定侯)を酇侯に改めました。
蕭延死後は子の蕭遺(煬侯)が継ぎます。しかし蕭遺にも子がいなかったため、蕭遺の死後、文帝は蕭遺の弟・蕭則に跡を継がせました。
ところが蕭則は罪を犯して廃されてしまいます。
景帝二年、蕭則の弟・蕭嘉(幽侯)が武陽侯(または「武陵侯」)に封じられました(ここまでは既述の内容です)。
その後、蕭嘉の子・蕭勝が武陽侯を継ぎましたが、罪を犯してまた廃されました。
秋、匈奴が右北平と定襄に侵入しました。それぞれ数万騎で、千余人を殺略しました。
武帝は謁者を使者にして山東に派遣しました。使者は水害があった郡に宿麦(秋冬に種を撒いて年が明けてから収穫する麦)を撒くように奨励し、郡国の倉廥(倉庫)を空にして貧民を救済させましたが、まだ物資が足りません。
更に豪富・吏民で貧民に資財を貸し出しできる者を募ってその名を朝廷に報告させましたが、やはり救済には足りませんでした。
朝廷は山東の貧民を函谷関以西および朔方以南の新秦に遷しました。
移住した貧民は七十余万口に上り、衣食は全て県官(朝廷)が提供しました。数年の間は産業(家や田地等の財産。または生産に必要な資源)も貸し与えます。
使者が各地に分かれて移民を監督し、馬車が連なりました(原文「冠蓋相望」。使者の冠や馬車の屋根が連なる様子です)。
費用は億を越えて数え切れないほどになりました。
武帝は詔を発して三郡の戍卒を半分に減らし、天下の徭役の負担を軽減させました。
当時は法がますます厳しくなって多くの官吏が廃免されました。また、兵革(戦争)が頻繁に起きていたため、民の多くが兵役を逃れるために爵位を買い、五大夫に及んでいました(『資治通鑑』胡三省注によると、五大夫は旧爵二十等の第九級に当たります。漢の法では五大夫から傜役が免除されました)。
罪を犯して罷免された官吏が増える一方で、徭役に徴発できる士卒は減少しています。
そこで千夫(武功爵第七級)と五大夫を官吏に任命し、官吏になりたくない者には馬を提供させました。
官吏で法を利用して悪事を働いた者は全て労役に従事させ、上林苑で荊棘を刈るか昆明池を掘らせました。
この年、渥洼水(川の名)で神馬を得ました。
『資治通鑑』胡三省注によると、南陽郡新野に暴利長(人名)という者がおり、武帝の時代に刑を受けて敦煌で屯田していました。暴利長はしばしば川の傍で野生の馬の群れを見ました。その中に他の馬とは異なる奇馬がいて、川に水を飲みに来ました。
暴利長はまず土人を作り、勒(馬を御す皮ひも)を持たせて川辺に立てました。やがて馬は土人に慣れて警戒しなくなります。久しくして暴利長が土人に代わりました。勒を持って川辺に立ち、馬が近づいたところを捕まえます。暴利長はその馬を皇帝に献上し、神異な馬にするために水中から現れたと報告しました。
『資治通鑑』本文に戻ります。
当時、武帝は楽府を建てたばかりでした。
武帝は司馬相如等に詩賦を作らせました。
また、宦者・李延年を協律都尉に任命して二千石の印を佩させました。新しく作られた詩に合わせて絃楽を配し、八音(各種の楽器。金・石・絲・竹・匏・土・革・木)の調と符合させます。
詩の多くが『爾雅(古代の辞書。全二十篇。西漢文帝時代に爾雅博士が置かれました)』の文(難解な文辞という意味)を使っていたため、一経だけに通じた士では意味が理解できず、『五経』の専門家が協力して研究することで、やっと詩意に通じることができました。
神馬を得た武帝は、馬のために歌を作らせることにしました。
しかし汲黯が諫めて言いました「王者が楽を作ったら、上はそれによって祖宗を奉じ、下はそれによって兆民を教化しなければなりません。今、陛下は馬を得たので詩を作って歌と為し、宗廟で演唱しようとしていますが(協於宗廟)、先帝や百姓がどうしてその音を知ることができるでしょう(先帝や百姓には何のための音楽か理解できません)。」
武帝は黙ってしまい、不快になりました。
武帝は広く士大夫を招きましたが、常に不足していると思っていました。しかし武帝の性格は厳峻で、かねてから寵愛信任されている群臣でも、少しでも法を犯したり欺瞞があったら、全て誅殺され、寛恕を得ることはありませんでした。
汲黯が武帝を諫めて言いました「陛下は賢才を求めてとても苦労しているのに、彼等がまだ能力を発揮する前に殺してしまっています。有限の士に対して無限の誅をほしいままにしたら、臣は天下の賢才が尽きてしまうのではないかと恐れます。陛下は誰と共に(天下を)治めるつもりですか。」
汲黯の言は怒りに満ちていました。しかし武帝は笑って諭しました「いつの世も才(賢才)がいないことはない(何世無才)。憂いるべきは人がそれ(賢才)を認識できないことだ。もし認識できるのなら、なぜ人がいないことを憂いる必要があるのだ(賢才はいつの世にも存在するのだから、それを見つける能力があるのなら、賢才がいないことを憂いる必要はない)。そもそも、才というのは有用な器のようなものだ。才がありながらそれを使い尽くそうとしないのなら、才がないのと同じだ。殺さずにどうしろというのだ(不殺何施)。」
汲黯が言いました「臣は言によって陛下を屈させることができませんが、心中ではまだ(陛下が)非(間違い)であると思っています。今後、陛下が改めることを願います。臣を愚者とみなして道理を知らないとは思わないでください。」
次回に続きます。