西漢時代114 武帝(三十三) 李広の死 前119年(2)
春、東北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
夏、西北に長星(彗星の一種)が現れました。
武帝が諸将と議論して言いました「翕侯・趙信が単于のために画策しており、いつも漢兵が幕(漠。沙漠)を越えて容易に駐留するのは不可能だと思っている(あるいは「漢軍が軽装で沙漠を越えて長い間駐留するのは不可能だと思っている」。原文「以為漢兵不能度幕軽留」)。今、士卒を大動員すれば、我々が欲することを必ず得られるだろう(其勢必得所欲)。」
武帝は粟馬(粟米で養った馬)十万を動員し、大将軍・衛青と票騎将軍・霍去病にそれぞれ五万騎を率いさせました。これ以外に衣服等を運ぶために従う私有の馬(私負従馬)も四万頭います。更に歩兵や輜重を輸送する者数十万人が軍の後ろに続きました。力戦して深入りできる勇士は全て霍去病に属します。
郎中令・李広が何度も出征を請いました。
武帝は李広が老いているため同意しませんでしたが、久しくしてやっと出征を許します。李広は前将軍になりました。
また、太僕・公孫賀が左将軍に、主爵都尉・趙食其が右将軍に、平陽侯・曹襄が後将軍になりました。四将軍は大将軍・衛青に属します。
しかし東道は遠回りになるうえ水草が少ないため、李広は衛青にこう言いました「臣の部(部隊)は前将軍に属します。しかし今、大将軍は令を変えて臣を東道から出させることにしました。臣は結髪(髪を結うこと。成人すること)してすぐに匈奴との戦いを始めました。今、やっと単于に当たる機会を得たので、臣が前に進んで先に単于と命を懸けることを願います。」
衛青は秘かに武帝の警告を受けていました。「李広は年老いており、運もよくない(数奇)。単于に当たらせてはならない。欲するものを得られなくなることを恐れる(戦に勝てず単于を捕えられないことを恐れる)」という内容です。
そこで李広を東道に遷しましたが、内情を知った李広は衛青の前で頑なに辞退しました。しかし衛青は李広の願いを聞こうとしません。李広は心中に憤懣を抱いたまま別れも告げずに出発しました。
匈奴も一万騎を放ちます。
漢軍は更に左右両翼から兵を出撃させて単于を囲もうとしました。
単于は漢兵が多く士馬もまだ屈強な様子を見て、戦っても漢兵に敵わないと判断しました。六頭の騾(馬と驢馬の間にできた雑種。『資治通鑑』胡三省注によるとに騾は忍耐強いようです)に乗って壮騎数百と共に漢軍の包囲を突破し、西北に向かって駆けて行きます。
既に空が暗くなってからも漢と匈奴は混戦しており、双方が殺傷した数はほぼ同等でした。
やがて漢軍の左校が捕虜を得て「単于は暗くなる前に去った」と聞きました。
漢軍は軽騎を発して夜間追撃し、衛青の大軍がその後を追いました。匈奴兵は四散逃走します。
漢軍は明け方まで追撃して二百余里を駆けましたが、単于を得ることはできませんでした。但し捕斬した首虜は一万九千級に上ります。
そこに一日留まってから、城に残った食糧を全て焼き払って帰還します。
衛青が引き返して幕南(沙漠南部)を過ぎた時、やっと二将軍に遭遇します。
李広は衛青に会いに行ってから、自分の軍に帰りました。
すると衛青が長史を送って糒醪(干し飯と濁酒)を李広に届けました。長史は李広と趙食其が道に迷った状況を問い、衛青の言葉を伝えて「青は天子に上書して失軍の曲折(状況。詳細)を報告したい」と言いました。
しかし李広は何も答えません。
衛青の長史は李広の幕府の者を厳しく譴責して大将軍の前で審問に答えるように要求しました。
李広が衛青の長史に言いました「諸校尉に罪はない。私が道を失ったのだ。私が自ら莫府(大将軍の幕府)に行って審問を受けよう(原文「上簿至莫府」。「上簿」は「報告書を提出する」という意味ですが、審問を受けるという意味もあります)。」
李広が幕府に来てから麾下(部下)に向かってこう言いました(衛青の幕府で自分の部下に話すのは不自然なので、衛青の幕府で報告を終えて、自分の幕府に戻ってから、部下に話をしたのだと思います)「広(私)は結髪してから匈奴と大小七十余戦を経験してきた。今回、幸いにも大将軍に従って出撃し、単于の兵と接することになったが、大将軍が広部(李広の部隊)を移したたため、行軍は回遠(迂曲遥遠)になり、しかも道を失ってしまった(道に迷ってしまった)。これは天(天意)ではないか(豈非天哉)!それに、広の年は六十余になる。これからまた刀筆の吏(官吏。獄吏)に対することはできない。」
李広は刀を抜いて自剄してしまいました。
李広は廉潔な人物で、賞賜を得たらいつも麾下(部下)に分け与え、飲食も士卒と共にしていました。二千石の官に就いて四十余年になりますが、家に余財はありませんでした。
李広は猨臂(猿のような腕。自由に腕を動かせるという意味です)を持ち、射術を得意としました。矢が当たらないと判断したら無駄に矢を射ることはありません。
将兵の飲食が欠乏した時は、水を見つけても士卒が全て飲み終るまで李広は水に近づきませんでした。食事の時も、士卒が全て食べるまで李広は食べようとしません。そのため士卒は李広を愛し、喜んで仕えました。
李広が死ぬと一軍(全軍)が全て哀哭し、それを聞いた百姓も、李広と面識がある者もない者も、老壮に関わらず涙を流しました。
次回に続きます。