西漢時代116 武帝(三十五) 義縱と王温舒 前119年(4)

今回で西漢武帝元狩四年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴伊稚斜単于が趙信の計を用いて漢に使者を派遣し、好辞によって和親を請いました。
武帝は群臣に協議させます。ある者は和親に賛成し、ある者はこの機に匈奴を臣服させるべきだと主張しました。
丞相長史(『資治通鑑』胡三省注によると、丞相には二人の長史がおり、秩は二千石です)任敞が言いました「匈奴は破れたばかりで困窮しているので、彼等を外臣とし、辺境で朝請(朝見)させるべきです。」
漢は任敞を匈奴に派遣して伊稚斜単于を臣服させようとしました。単于は激怒して任敞を匈奴に留めます。
 
博士狄山は和親に利があると主張しました。
資治通鑑』胡三省注によると、狄氏は春秋時代の狄国の子孫です。または、周文王が少子を狄城に封じ、その子孫が狄を氏にしたともいいます。
 
武帝が張湯に意見を求めると、張湯はこう言いました「この愚儒は無知です。」
すると狄山はこう言いました「臣は元から愚ですが、愚忠です(愚昧なほど忠誠です)御史大夫湯のような者は詐忠(偽りの忠)です。」
武帝が顔色を変えて言いました「わしが生(先生。博士)を一郡に住ませたら、虜匈奴に入盗させなくすることができるか?」
狄山は「できません不能」と答えました。
武帝がまた問いました「一県に住ませたらどうだ?」
狄山は「できません不能」と答えます。
武帝が更に問いました「一障の間(「障」は要道に築かれた障壁、小城です)に住ませたらどうだ?」
狄山はこのまま質問が繰り返されても最後は回答に窮して吏(官吏、獄吏)に下されることになると判断し、ついに「できます(能)」と答えました。
武帝は狄山を派遣し、障に登って守らせました。
一月余経ってから、匈奴が狄山の頭を斬って去りました。
この後、群臣は震撼して張湯に逆らう者がいなくなりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、右内史汲黯が法に坐して罷免され、定襄太守義縱(義が氏、縱が名)が右内史に、河内太守王温舒が中尉になりました。
 
以前、甯成が関都尉(函谷関都尉)だった頃、関を出入りする吏民はこう言いました「乳虎(子を養っている母虎。または生まれたばかりの虎)に遭うことがあったとしても、甯成の怒には遭いたくない(寧見乳虎,無値甯成之怒)。」
義縱が南陽太守になって函谷関に来ると、甯成は側行(体を正面に向けずに歩くこと。恭敬を表します)して送迎しました。ところが義縱は郡に入るとすぐに甯氏の罪を調査し、一家を滅ぼしました(甯成自身も罪に坐して処刑されました)
南陽の吏民は義縱に対して恐れを抱きます(原文「重足一迹」。足を重ねて前に踏み出せないこと。恐懼を表します)
 
後に義縱は定襄太守に移されました。
義縱は着任するとすぐに定襄の獄にいた重罪軽繫の者(重罪を犯したのに刑具が外されている者)二百余人を拘束し、更に賓客や兄弟で勝手に彼等に会いに来た者二百余人も併せて逮捕しました。
義縱が審問して言いました「彼等は死罪の囚人のために勝手に刑具を解いた。」
この日、四百余人を処刑した事が朝廷に報告されました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢律では囚徒が勝手に刑具を外したら罪一等を加えられ、他者が囚人のために刑具を外したら囚人と同罪になりました。そこで義縱は重罪を犯した囚人に会いに来た者を刑具を外した者とみなして死罪にしました。
この一件で郡中が戦慄しました(原文「不寒而慄」。寒くもないのに震えるという意味です)
 
当時、趙禹と張湯が厳格な法によって九卿になりましたが、その政治はまだ法の助けを借りて(法に基づいて)実行していました。しかし義縱は専ら鷹撃(鷹が獲物を撃つこと。厳酷苛烈なこと)によって世を治めました。
 
王温舒はかつて広平都尉になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、広平郡は趙国に属していましたが、景帝と武帝の時代に広平郡に分けられました。後に平干国が立てられます。
 
王温舒は郡中から豪勇果敢で後ろを顧みない十余人の官吏を選んで爪牙(頼りになる部下)にしました。
王温舒は彼等の隠された重罪を把握し、盗賊を取り調べさせます。
もし王温舒が欲していた結果を得て満足させられるようなら、百罪があっても法を執行しませんでしたが、もし王温舒の意向に合わず、尽力しなかったら、旧罪を理由に処刑し、宗族を滅ぼすこともありました。
そのため斉、趙の郊外の盗賊は広平に近づかなくなり、広平は「道に落ちている物を着服する者もいない(道不拾遺)」と称賛されるようになります。
 
後に王温舒は河内太守に遷され、九月に着任しました。王温舒は郡に命じて自分のために馬五十頭を準備させ、全て河内から長安に走る駅馬にしました。
その後、王温舒は郡中の豪猾(法を守らない横暴な者。姦悪な豪族)を逮捕しました。連坐した者は千余家に及びます。王温舒は罪が大きい者は族滅、小さい者は死刑とし、家財を没収して臧(贓。貪汚で得た財産)を償わせました。
王温舒の判決文は準備された駅馬で京師に送られ、二三日で武帝の許可が河内に届きました。すぐ判決に基いて刑が執行されます。流血は十余里に渡り、河内の人々は神速のような奏章を不思議がりました。
 
十二月末になると郡中には声を挙げる者も夜の間に外出する者もいなくなり、野には盗賊を吠える犬の声もなくなりました。
逮捕から逃れて近隣の郡国に逃げた者もいましたが、王温舒は徹底的に追求しました。
しかし春(正月)になってしまったため、王温舒は足踏みして悔しがり、嘆息して「ああ(嗟乎)、冬月を一月延ばすことができれば、我が事を為すに足りたのだが」と言いました。
春になったら犯人を逮捕しても死刑が執行できないからです。
 
武帝はこれらの事を聞いて義縱と王温舒に能力があると判断し、中二千石(右内史と中尉)に抜擢しました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡守は二千石で正卿や列卿は中二千石です。
武帝の時代は、既述の張湯、甯成や今回の義縦、王温舒のように酷吏が多く登場した時代でした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
斉人の少翁が鬼神に関する方術をもって武帝に謁見しました。
武帝が寵愛していた王夫人(斉王劉閎の母)が死ぬと、夜、少翁が方術を使って鬼(幽霊。霊魂)を招きました。鬼は王夫人の容貌をしています。武帝は帷の中からそれを眺め見ました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『漢書』はこの出来事を『李夫人伝外戚伝上九十七上)』に置いています。しかし『史記封禅書』では王夫人の事としており、また、李夫人が死んだ時は少翁が死んで既に久しいため、『漢書』の誤りとしています。
 
武帝は少翁を文成将軍に任命し、多数の賞賜を与えて客礼で遇しました。
文成将軍は武帝に甘泉宮建造を勧め、中に台室を建てさせました。天地や太一等の諸鬼神を描き、祭具を置いて天神を招きます。
 
しかし一年余して方術が衰え始め、神が至らなくなりました。
そこで少翁は帛書を牛に食べさせ、知らないふりをして武帝にこう言いました「あの牛の腹中に奇があります。」
武帝が牛を殺して腹の中を確認させると、果たして書が出てきました。そこには奇怪な言葉が書かれています。
しかし武帝は筆跡から少翁が書いたものだと見破り、詰問しました。その結果、偽書だと分かります。
武帝は少翁を誅殺し、これらの事を隠して人に知られないようにしました。
 
 
 
次回に続きます。