西漢時代117 武帝(三十六) 神君 前118年
癸亥 前118年
丞相・李蔡が孝景園(景帝陵)の堧地(陵園外の空地)を私有化してその中に埋葬したため(原文「葬其中」。恐らく親族を埋葬したのだと思います)、吏(官吏。獄吏)に下されることになりました。
春三月甲午(十一日)、李蔡は自殺しました。
三銖銭を廃止して新たに五銖銭を鋳造しました。
『資治通鑑』によると、五銖銭を発行してからも民の多くが秘かに貨幣を鋳造し、楚地が最もひどい状態でした。
汲黯は伏して辞退し、印を受け取ろうとしませんでしたが、武帝が何度も詔を発して強制したため、ついに詔を受け入れました。
汲黯が泣いて言いました「臣は老齢で余命が短いので(原文「塡溝壑」。直訳すると「溝を埋める」ですが、「墓穴に入る」「死ぬ」という意味になります)、再び陛下に謁見する機会はないと思っていましたが、図らずも陛下に再び收用されました。臣は常々狗馬の病(持病。狗馬は謙遜を示します)があり、郡事を任せられる能力はありません。臣は中郎になって禁闥を出入りし、(陛下の)過失を補って遺漏を拾い上げたいと思っています(補過拾遺)。これが臣の願いです。」
汲黯は別れを告げて出発してから、大行・李息を訪ねてこう言いました「黯(私)は棄逐(放逐)されて郡に住むことになったので、朝廷の議に参与する機会はない。御史大夫・湯(張湯)は、その智は諫言を拒むに足り(知恵があるため他者の諫言を言いくるめることができ)、詐は非を飾るに足る。彼は巧佞の語と辯数(弁解)の辞に務め、天下のために公正な発言をすることはなく、専ら主(陛下)の意におもねっている。主の意が欲しない者がいたら、その機会に乗じて誹謗し、主の意が欲する者がいたら、その機会に乗じて称賛している。事を興すことが好きで、文法(法令)を弄び、内には詐(詐術。欺瞞)を抱えて主の心を御し、外では賊吏を従えて威を重くしている。公は九卿に列しているから、早くこれを言わなければ(張湯の悪行を暴露しなければ)、公も彼と共に戮(死刑)を受けることになるだろう。」
武帝は汲黯に諸侯王の相と同じ秩を与えて淮陽に住ませました。十年後に世を去ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、諸侯王の相は郡守の上で、秩は真二千石ですが、実際は毎月百五十斛を得るので一年で千八百石になります。郡守の秩は二千石で、実際は毎月百二十斛を得るので、一年で千四百四十石になります。
以上は『資治通鑑』の記述で、『漢書・張馮汲鄭伝(巻五十)』が元になっています。『史記‧汲鄭列伝(巻百二十)』では淮陽に遷って七年で死んでいます。『漢書』の「十」と『史記』の「七」のどちらが誤りかは分かりません。
夏四月乙卯(初二日)、太子少傅・武強侯・荘青翟を丞相に任命しました。
『史記・高祖功臣侯者年表』と『漢書・高恵高后文功臣表』によると、武強侯(武彊侯)は高帝の功臣・荘不識が封じられました。諡号は荘侯です。その後、簡侯・荘嬰を経て荘青翟の代になっていました。荘青翟は後に罪を犯して廃されるため、諡号がありません。
游水発根が「上郡に巫がいます。病にかかった時、鬼神がその身に降ります(または「かつて病を患った時、鬼神がその身に降りました。」原文「病而鬼神下之」。下述参照)」と言いました。
『資治通鑑』胡三省注が「游水発根」について解説しています。一説では游水は県名、または臨淮郡の川の名で、発根は人名です。別の説では、游水は川の名にちなんだ姓で、発根は名です。
武帝は巫を招いて甘泉宮で祀りました。巫は神君と呼ばれます。
病になってから、武帝が人を送って神君に問いました。
この部分は理解が困難です。原文は「及病,使人問神君」としか書かれていないため、誰が病になったのか分かりません。
「神君が病になってから」とする場合は、神君が病になる度に鬼神が降臨していることになります。
「武帝が病になってから」とする場合は、游水発根の進言は以前の事で、武帝が鼎湖で病になる前から神君(巫)が甘泉宮で祀られていたと解釈できます。神君がかつて病を患った時に鬼神が降臨し、その後常に身に附ていたことになります(この後の記述を見ると、恐らく神仙は常に神君に宿っていたと思われます)。
神君が言いました「天子が病を憂いる必要はありません。病が少し愈えたら、無理してでも甘泉で私に会いに来てください。」
やがて武帝の病が少し善くなったため、起き上がって甘泉宮を訪ねました。すると病は完治しました。
しかし神君の姿は見ることができず、言葉だけが聞こえました。言葉は人の声と同じです。
神君は去ったり来たりしており、来る時は粛然(静まりかえった様子。または厳粛な様子)とした風が吹き、宮室の帷帳の中に住みました。
神君が語った内容は、世俗においては誰もが知っていて特別な事ではありませんでしたが、武帝だけは心中で喜びました。
この事は秘密にされ、世で知る者はいませんでした。
武帝が怒って言いました「義縱はわしが再びこの道を通ることができないと思ったのか!」
武帝は心中で義縱を怨むようになりました。
次回に続きます。