西漢時代118 武帝(三十七) 腹誹法 前117~116年

今回は西漢武帝元狩六年と元鼎元年です。
 
西漢武帝元狩六年
甲子 前117
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
冬十月、武帝が丞相から二千石までの官吏に金を、千石から乗従者(騎乗の従者)までは帛を、蛮夷には錦を下賜しました。下賜した数量は人によって差があります。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬なのに雨が降っても氷ができませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝は「緡銭令(税制)」を発布し、また、卜式を尊んで功績を称えました(どちらも元狩四年119年参照)
しかし財を分けて県官(朝廷)を助けようとする百姓(民)は出てきません。そこで武帝は楊可に命じて「緡銭令」に従わない者を検挙させました。
ところが義縱がこれを「民を乱す(混乱させる)ことになる」と判断し、部吏(管轄下の官吏)に楊可の使者(各地に派遣された者)を逮捕させました。
それを知った武帝は義縱が詔に逆らって大事を妨害した(廃格沮事)という理由で義縱を棄市に処しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
郎中令李敢は大将軍衛青を怨んでいました。父李広が衛青のために恨みを抱いて死んだと思っているからです(李広は匈奴を遠征した時、衛青の命令で遠回りして道に迷い、それが原因で自殺しました。元狩四年119年)
ある日、李敢が衛青を撃って負傷させました。しかし衛青はこの事を隠して公言しませんでした。
暫くして李敢が武帝に従って甘泉宮で狩りをしました(原文「従上雍至甘泉宮猟」。胡三省注によると「雍」の字は衍(余分)なので意味はありません)
この時、票騎将軍(驃騎将軍)霍去病が李敢を射殺してしまいました。『漢書・李広蘇建伝(巻五十四)』によると、霍去病は衛青を負傷させた李敢を怨んでいました。霍去病は衛青の姉の子に当たります。
 
当時、霍去病は武帝の寵幸を得て重用されていたため、武帝はこの事件を隠し、鹿が李敢にぶつかって殺したと発表しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月乙巳(二十八日)武帝が宗廟で皇子武帝の子)を封王しました。劉閎が斉王に、劉旦が燕王に、劉胥が広陵王になります。
この三人から「誥策」による封王が始まります。
「誥」は皇帝の命令、「策」は「策書(命令書)」で、漢代の制度では、天子の策は長さが二尺ありました(胡三省注)
史記三王世家』と『漢書武五子伝(巻六十三)』に三王に与えた「策(斉王策、燕王策、広陵王策)」の内容が書かれています。主に封国の国土や風俗について述べたり、王としてのあり方を訓示しています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
白金や五銖銭を造ってから、吏民で秘かに金銭を鋳造して死刑に処された者は数十万人に上りました。
それ以外にも発覚していない者は数え切れないほどいます。
天下のほとんど全ての者が金銭を私造しており、法を犯す者が多すぎるため、官吏がことごとく誅殺するのは不可能でした。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
六月、武帝が詔を発しました「最近、有司(官員)は幣が軽いため姦が多く(「貨幣が軽いため偽の貨幣が多い」、または「貨幣の価値が低くて物価が高すぎるため犯罪が多い」という意味です。前者は前年に触れました)、農が棄てられて末(工商業者)が増えた(農傷而末衆)と考えた。また、兼并の塗(貧民を兼併する富豪の道。「塗」は「道」です)を禁じる必要もあった。そこで、幣(貨幣)を改めて(姦邪を)抑制した(前年、三銖銭を廃止して新たに五銖銭を鋳造しました)。往古を考察して制度を現在に適応させたのである。しかし(旧貨幣を)廃してから一年以上(期有月)経つのに、山沢の民はまだ告示の意図を理解していない。(上が)仁を行えば(下は)善に従い、義を立てれば俗が変わるものである。(しかし今、新しい貨幣の制度が徹底できないのは)(法)を奉じる者の導き方が明確ではないからだろうか?百姓を殊路(異なる道)に安んじさせて、撟虔(偽りによって利益を奪うこと)の吏が形勢に乗じて蒸庶(民衆)を侵しているのだろうか?どうしてこのように混乱しているのだろう。
今、博士(顔師古注によると博士褚大)等六人を分けて天下を巡行させ、鰥寡廃疾(配偶者を失った男女や障害者、病人)を存問(慰問)し、自分を振業(救済)する術がない者に貸与(救済)する。三老孝弟を諭して民の師とし、独行(高尚)の君子を挙げて行在所(天子がいる場所)に徴集させる。
朕は賢者を嘉し、その人を知ることを楽しむ。厥道(失われた道)を広く宣揚し、士に特招(恐らく朝廷に招かれること)があるのは、使者の任である(優秀な士に特招の道を開かせるのは使者の任務である)。隠居して位(官位)が無い者および冤(冤罪。不当な理由)によって職を失った者に詳しく問い、姦猾によって害を為す者や、農地を廃れさせたり苛政を行っている者(野荒治苛者)は挙奏(検挙上奏)せよ。郡国に(国や民の)便となる者がいたら、丞相と御史に報告せよ。」
 
資治通鑑』はこう書いています。
武帝が詔を発して博士褚大、徐偃等の六人を各地の郡国に分派しました。
兼併の徒(貧民の土地を奪っている者)や郡守、諸侯相、官吏で罪がある者を検挙させました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月、大司馬票騎将軍驃騎将軍)冠軍侯霍去病(景桓侯)が死にました。
武帝は大変悲しんで哀悼し、祁連山に似せた冢(墓)を造りました。
 
以前、霍仲孺が平陽侯の家に仕えている時、衛青の姉衛少児と私通して霍去病ができました。
その後、霍仲孺は任期を終えて家に帰り、結婚して霍光という子が生まれました。
霍去病は成長してから自分の父が霍仲孺だと知ります。
そこで霍去病は票騎将軍になってから、匈奴を撃つために河東に出た機会に、官吏を送って霍仲孺を自分の営内に招いて会見しました。父のために高大な田宅や多数の奴婢を買ってから去ります。
遠征を終えてからは、異母弟霍光を連れて西の長安に還りました。
霍光は霍去病の保任(能力を保証して推薦すること)によって郎に任命され、すぐに奉車都尉、光禄大夫に出世しました。
資治通鑑』胡三省注によると、奉車都尉は武帝が置きました。御乗輿車(皇帝の車)を管理し、秩は比二千石に当たります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、大農令顔異が誅殺されました。
資治通鑑』胡三省注によると、大農令は元治粟内史です。景帝時代に改名されました。
史記平準書』の「索隠」は顔異の死を元狩四年の事としていますが、『漢書百官公卿表下』では元狩四年に顔異が大農令になり、二年で誅殺されたとしています(原文「大農令顔異二年坐腹非誅」)。「索隠」は『百官公卿表』を見間違えた(「二年」を見落とした)ようです(胡三省注参照)
 
顔異は廉直によって徐々に出世し、九卿に至りました。
かつて武帝が張湯と相談して白鹿皮幣を造った時(元狩四年119年)、顔異にも意見を求めました。
顔異はこう言いました「今、王侯が朝賀する時は蒼璧を使いますが、その価値は数千しかありません。しかし璧を献上する時に置く皮幣は四十万もします。本末が相応していません。」
武帝は不快になりました。
張湯も顔異と対立していました。ある人が別の事で顔異を告発したため、武帝は張湯に命じて顔異を裁かせます。
顔異が客と令(詔令)に関して話をしたことがありました。客は新しい令が下されたばかりの時の不便について語ります。顔異はそれに応えませんでしたが、わずかに唇が動きました(原文「微反脣」。「反唇」は「唇が反り返る」という意味で、恐らく唇を尖らした「ふくれっ面」を指します)
張湯はこの時のことを元に「異(顔異)は九卿でありながら、令に不便を見つけたのに進言せず、腹誹(心中で誹謗すること)しました。死刑に処すべきです(論死)」と上奏しました。
顔異は処刑され、腹誹の法例ができました。公卿大夫の多くが媚び諂って安全を求めるようになります(諂諛取容)
 
 
 
西漢武帝元鼎元年
乙丑 前116
 
宝鼎を得たため、元鼎に改元されました。但し、宝鼎を得るのは元鼎四年のことなので、この年号は後につけられたものとも言われています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月、天下に大赦し、五日間の大酺(大宴)を行いました。
 
漢書武帝紀』はここで「汾水上で鼎を得た」と書いており、元鼎四年(前113年)にも「宝鼎を得た」としています。『資治通鑑』胡三省注は、本年に改元が行われたために『漢書武帝紀』は誤って本年にこの一文を追記したのであって、汾水で二回鼎を得たわけではないと解説しています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
済東王劉彭離は梁孝王劉武の子で、文帝の孫に当たります。景帝の時代に王に立てられました。
驕悍(驕慢横柄強暴)な性格で、昏暮(夕方)になると奴(奴隷。家奴)や亡命した若者数十人を連れて物を盗んだり人を殺しました。財物を奪うことを嗜好としており、殺された者は発覚した事件だけで百余人に及びます。
そのため劉彭離は国を廃されて上庸に遷されました。
漢書』の注によると。上庸は春秋時代の庸国です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代119 武帝(三十八) 張湯の死 前115年(1)