西漢時代119 武帝(三十八) 張湯の死 前115年(1)

今回は西漢武帝元鼎二年です。三回に分けます。
 
西漢武帝元鼎二年
丙寅 前115
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月、御史大夫張湯が罪を犯したため自殺しました。
 
以前、御史中丞李文(張湯の部下)が張湯との間に間隙がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、御史大夫には二人の丞がおり、一人を中丞といいます。西漢成帝の時代に御史大夫は大司空に改名され、長史が置かれますが、中丞の官職はそのまま残ります。大司空は西漢哀帝時代に御史大夫に戻りましたが、後にまた大司空になりました。中丞は御史台主になり、東漢から魏、晋に至るまで変わりませんでした。
 
張湯は魯謁居という官吏を厚く遇していました。魯謁居は秘かに人を送って李文の姦事(悪事。罪状)を告発させます。
武帝は張湯に李文を裁かせ、死刑の判決が下されました。
張湯は内心で魯謁居が為した事だと知っていましたが、武帝が「変事の形跡はどこから起きたのだ(どうして李文の罪が発覚したのだ)?」と問うと、驚いたふりをして「恐らく李文の故人(旧友)が彼を怨んだのでしょう(李文を怨んでいた者が告発したのでしょう)」と答えました。
 
張湯は魯謁居に恩を感じたため、魯謁居が病になった時、張湯自ら魯謁居を看病して足を揉みました。
趙王劉彭祖(景帝の子)も以前から張湯を怨んでいたため、上書して言いました「張湯は大臣でありながら、吏のために足を揉みました。共に大姦を為そうとしている疑いがあります。」
武帝は廷尉に調査を命じました。ちょうど魯謁居が病死してしまったため、弟が巻き込まれて導官に繋がれます。
導官は少府に属す官署で、祭祀に使う食物を管理しました。監獄ではありません。『資治通鑑』胡三省注によると、恐らく監獄が満員だったため、とりあえず官署に繋がれたようです。
 
張湯は他の犯罪を裁くために導官に行った時、魯謁居の弟を見ました。陰で助けようとしましたが、表面上は知らないふりをします。
魯謁居の弟はそれを知らないため張湯を怨みました。人を送って上書し、張湯と魯謁居が共に謀って李文を告発した事を訴えます。
武帝は減宣(人名)に張湯を裁かせました。
減宣も張湯と対立していたため、徹底的に調査しましたが、まだ報告には至りませんでした。
 
ちょうどこの頃、ある者が孝文園(文帝陵)の瘞銭(園陵に埋めた貨幣)を盗みました。
丞相青翟は入朝する前に張湯と共に謝罪することを約束しました。
ところが武帝の前まで来ると張湯は謝罪しませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、丞相は四季ごとに園陵に行っているので謝罪して当然ですが、御史大夫は園陵の事に関わる必要がありません。
 
武帝は張湯に荘青翟の責任を審理させました。張湯は荘青翟に「丞相は犯罪を知っていたのに見てみないふりをした(丞相見知)」という罪を着せようとしました。荘青翟は張湯の誣告を恐れて愁います。
 
丞相長史朱買臣、王朝、辺通は、以前は九卿や二千石として張湯の上にいました。
資治通鑑』胡三省注によると、朱買臣は主爵都尉、王朝は右内史、辺通は済南相を勤めていました。
辺氏の祖は宋平公の子戎の字が子辺だったことから始まるといわれています。または周に大夫伯がおり、その子孫に当たります。
 
張湯はしばしば丞相の政務を行っており(行丞相事)、三長史がかねて尊貴な地位にいたことを知っていたため、故意に辱しめて丞史(補佐官)として遇しました。三長史は張湯を憎んでおり、その死を欲しています。
そこで三人は丞相青翟と相談し、官吏を送って賈人(商人)田信等を逮捕審問してからこう言いました「張湯が何かを奏請しようとした時、田信はいつもそれを先に知っていた。彼等は物を溜めて富を作り(「居物致富」。恐らく新しい法令がもたらす物価の変動を先に知って財を成していたのだと思います)、張湯に分けていた。」
この噂が拡がって武帝の耳にも入りました。
武帝が張湯に問いました「わしが為すことを賈人はいつも先に知っており、多くの物を蓄えていた。わしの謀(計画)を彼等に告げる者がいたようだ。」
張湯は謝罪せず、驚いたふりをして「そのような事もあったのかもしれません(もとよりあり得ることです。原文「固宜有」)」と言いました。
 
この頃、減宣が魯謁居の事件を報告しました。
武帝は張湯が奸詐を抱きながら自分の前では偽っていると判断し、趙禹を送って張湯を厳しく詰問させました。
張湯は謝罪の上書を準備して「臣を陥れたのは三長史です」と書き記し、自殺しました。
張湯が死んだ時、残された家財の価値は五百金もありませんでした。
 
張湯の兄弟諸子が張湯を厚葬しようとしましたが、張湯の母はこう言いました「湯は天子の大臣となったのに、汙悪の言(悪言誹謗)を被って死にました。どうして厚葬する必要があるのですか。」
張湯の死体は牛車に乗せられました。棺があるだけで槨(外棺)はありません。
これを聞いた武帝は三長史(朱買臣、王朝、辺通)を裁いて誅殺しました。
 
十二月壬辰(二十五日)、丞相青翟も下獄されて自殺しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春、柏梁台を築きました。
台上に承露盤が作られます。高さ二十丈、太さ七囲(一囲は一人が両腕で抱きかかえられる太さ)の銅でできた盤です。上に仙人掌(神仙の手を形どった受け皿)を置いて露水を集め、玉屑(玉の粉末)を混ぜて飲みました。長生(長寿)になると言われていたからです。
この後、宮室の建築が日に日に盛んになりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
二月、太子太傅趙周が丞相に任命されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月辛亥(十五日)、太子太傅石慶が御史大夫になりました。
資治通鑑』胡三省注は衛国の大夫に石氏がいたと書いています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春なのに大雪が降りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、大水(洪水)があり、関東で餓死した者が千人を数えました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
秋九月、武帝が詔を発しました「仁は遠くても異ならず(仁とは遠近関わらず平等である。「仁不異遠」)、義は困難を憚らない義不辞難)ものである。今、京師は豊年(豊作)ではないが、山林池沢の饒(物資)を民に与えて共にするべきである。最近、水潦(洪水)が江南に移り、隆冬(厳冬)の到来も迫っているので、朕は飢寒によって活きられなくなることを恐れる。江南の地は火耕水耨(「火耕」は焼畑農耕。「水耨」は水を浸して草を除き、稲を育てる農耕の方法)し、すぐに巴蜀の粟穀物を江陵に集めさせよ。博士中等(「中」は人名)を派遣し、各地を巡行して巴蜀の食糧の)到着を諭告させる。重困させてはならない(民をこれ以上苦しませてはならない)。吏民で飢民を振救(救済)して戹(厄。災難)を免れさせた者は、詳しく挙げて報告せよ。」
 
 
 
次回に続きます。