西漢時代 張湯

西漢武帝元朔三年(前126年)に張湯が廷尉になりました。

西漢時代103 武帝(二十二) 張騫 前126~125年

ここでは『漢書張湯伝(巻五十九)』と注釈を元に張湯について書きます。
 
張湯は杜陵の人で、父は長安丞を勤めました。
ある日、父が外出したため、まだ子供だった張湯が家を守りました。
父が帰ってから、鼠が肉を盗んだことに気づきました。怒った父は張湯を笞で打ちます。

すると張湯は(鼠の巣を)掘って燻し(『漢書』の原文は「掘熏」です。『史記酷吏列伝(巻百二十二)』には「掘窟(巣を掘る)」と書かれています。『漢書』の誤りかもしれません)、鼠と余った肉を得ました。張湯は鼠を弾劾してから掠治(尋問)を始め、爰書(調書)を作り、更に訊鞫(尋問)を加えてから罪を確定して報告しました。

その後、鼠と肉を持って堂下に行き、判決文をそろえて磔(八つ裂き)の刑に処しました。
父は張湯の裁判を見ており、判決の文辞も老練な獄吏のようだったため大いに驚きました。
そこで張湯に刑獄の文書律令を学ばせました。
 
父の死後、張湯は長安(県吏)になりました。周陽侯(田勝。王太后の同母弟)が諸卿(高官)だった頃、長安の獄に繋がれたことがありました。張湯は尽力して田勝の世話をします。そのため田勝は獄を出て封侯されてからも張湯と親しく交わり、貴人を一人一人紹介していきました。
やがて張湯は内史で働くことになり、甯成の掾(属官)になりました。甯成は張湯の才能に勝る者はいないと考えて大府(丞相府)に推薦します。
張湯は茂陵尉に任命されて方中(皇帝の陵墓)の建設を主管することになりました。
 

武安侯田蚡が丞相になると、張湯を招いて史(属吏)にしました。更に武帝に)推薦して侍御史に任命します(『史記酷吏列伝』では「御史」です)

張湯は陳皇后の巫蠱の獄を裁き、党与の深くまで追求しました。

武帝は張湯の能力を認めて太中大夫に抜擢しました武帝元光五年130年)

張湯は趙禹と共に諸律令を定め、深文(厳しい法)の作成に務めました。守職の吏(職位にいる官吏)を厳しく拘束します。
 
暫くして趙禹が少府に昇格し(『漢書・百官公卿表下』を見ると、二年後の元朔五年に中尉・趙禹が少府になっています)、張湯が廷尉になりました(本年)。二人は親しく交際し、張湯は趙禹に兄事しました。
但し、趙禹の志は奉公孤立(公を奉じて独立していること。孤高であること)にありましたが、張湯は巧知をめぐらして他者を御すことを好みました。
 

張湯はまだ小吏だった頃、乾没(投機)のために長安の富賈(富商)田甲や魚翁叔といった者達と私的な交わりを結びました。位が九卿に列すると、天下の名士大夫を集めて交わり、内心では合わないと思っていても表面上は道義をもって交わるふりをしました(相手を尊重するふりをしました)

 
当時は武帝が文学儒学の学問)を重視していたため、張湯が大獄の判決を下す時は古義儒学の観点)に従うことを欲しました。そこで、博士弟子(博士の下に置かれた弟子。武帝元朔五年・前124年参照)に『尚書』や『春秋』を研究させて廷尉史に任命し、疑法(疑問がある案件)を評議させました。
 
資治通鑑』にはこう書かれています。
当時、武帝が文学を重視していたため、張湯は儒者を敬慕する姿を装って董仲舒や公孫弘等に仕えました。千乗(地名)の人兒寬を奏讞掾に任命し、古の法と義(教義)に従って疑獄を判決しました。

資治通鑑』胡三省注によると、兒氏は姓から生まれました。は本来国名で、国人がそれを氏にしましたが、後に「阝」を除いて「兒」氏にしました。

奏讞掾は廷尉掾を指すようです。
 
漢書』に戻ります。
張湯が疑問のある案件を皇帝に報告する時は、必ず先に各方面の原因をまとめて皇帝に示し、皇帝が正しいと判断した内容を受け入れて、(それを前例として)讞法(刑法条例)や廷尉の挈令(木板に刻まれた法令)に書き記しました。こうすることで君主の明(賢明)を高揚します(法令は天子の意思によるものであって、臣下が決められることではないという態度を示しました)
報告して皇帝に譴責されたら、張湯はすぐに過失を認めて謝罪し、皇帝の意向に沿いました。また、必ず正監掾史(廷尉の属吏)の中で賢能な者を挙げて「元々(彼等は)臣のためにそのように議し、上(陛下)が臣を譴責しているのと同じでしたが(部下は皇帝の意見と同じでしたが)、臣が用いなかったのです。愚がここまで至ってしまいました(『漢書』の原文は「固為臣議如此。上責臣,臣弗用,愚抵此」。『史記』では「固為臣議,如上責臣,臣弗用,愚抵於此」です)」と言いました。
張湯の態度がこのようだったので、罪を犯してもしばしば赦されました。
 

張湯が朝廷以外の場所で上奏して武帝が称賛すると、張湯はこう言いました「臣はこのような奏文をどう作るのか知りません。監史の某が為したのです。」

張湯が官吏を推薦しようとする時は、このように人の善(長所)を揚げて人の過(短所)を隠しました。
 

張湯が判決を下す時は、皇帝が罪を与えたいと思っている者に対しては監(『資治通鑑』胡三省注によると、廷尉には左右監がおり、秩千石でした。また廷尉の獄史は二十七人いました)の中でも法に厳しく人に禍を与えられる者を選んで審問させ、皇帝が釈放したいと思っている者に対しては、監史の中でも尋問が軽くて公平な者を選んだため、武帝は張湯の判決に喜びました。

裁判の対象が豪(富豪。豪族)なら法令を駆使して罪を与えましたが(舞文巧詆)、下戸羸弱(平民弱者)なら武帝に「文(法令)に則るなら法に至りますが(刑を与える必要がありますが)、上(陛下)の裁察(裁き)しだいです」と進言しました。
そのため刑を与える判決文が提出されても、張湯の言のおかげで往々にして釈放されました。
 
張湯は大吏(大官)に至りましたが、内面では行いを正し、賓客と交わって飲食し、故人(旧友)の子弟で官吏になった者や貧困な兄弟に対しては厚く調護(面倒を見ること。「調」は「調教」「教育」、「護」は「保護」)しました。また、諸公重臣を訪ねて挨拶し、寒暑を避けることがありませんでした。
そのため、張湯は刑法が苛酷で、猜疑嫉妬の心が強く(意忌)、不公平でしたが、声誉(名声)を得ることができました。
多数の深刻吏(厳酷な官吏)が張湯の爪牙(部下)として用いられ、文学の士に頼りました(原文「依於文学之士」。「張湯の部下を文学の士から選んで任命した」または「張湯の部下も文学の士を頼りにした」という意味だと思います)
丞相公孫弘は頻繁に張湯の美徳を称えました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
汲黯が武帝の前で張湯を譴責して言いました「公は正卿(九卿)になりながら、上は先帝の功業を褒揚できず、下は天下の邪心を抑えることも、国を安んじて民を富ませることも、囹圄(監獄)を空虚にすることもできない。なぜいたずらに高皇帝の約束律令を紛更(乱して変えること)しているのだ。公はこの事によって種が無くなるだろう(子孫が残されなくなるだろう)。」
 
汲黯はしばしば張湯と論議しました。張湯の言葉は常に文面を深く追求し、些細な事にも厳格でした(または「法に対して厳しく、些細な事にも苛酷でした。」原文「文深小苛」)。汲黯は剛直で高節を守っていましたが(伉厲守高)、張湯を屈服させることができません。
汲黯が憤慨して罵りました「天下は刀筆の吏が公卿になるべきではないと言っているが、その通りだ。必ず湯(張湯)の意見を実行するというなら、天下の人々を重足(足を重ねて立つこと。恐れて前に足を出せない姿です)して立たせ、側目して視させることになるだろう(「側目して視る」というのは横目で視ることです。恐れて正視できないためです)!」