西漢時代120 武帝(三十九) 均輸法 前115年(2)

今回は西漢武帝元鼎二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、孔僅が大農令に、桑弘羊が大農中丞になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、大農には二人の丞がいました。武帝元狩四年(前119年)に東郭咸陽と孔僅が大農丞になっています。
今回置かれた中丞は二人の丞の上になるはずです。
 
桑弘羊は各地の郡国に徐々に均輸官を配置し、貨物を流通させました。これを均輸法といいます。
『塩鉄論本議第一』西漢桓寛)と胡三省注を元に少し詳しく解説します。まず『塩鉄論』の内容です。
「かつては郡国諸侯がそれぞれの産物を京師に貢納していましたが、往来が困難なうえ多くの物が粗悪で、輸送の費用も補えないことがありました。そこで郡国に輸官を置いて互いに輸送を助けさせ、遠方からの貢納も便利にしました。これを均輸といいます。
また、京師に委府(倉庫)を開いて貨物を国で蓄え、値段が落ちたら買い(賎即買)、高くなったら売ることにしました(貴則売)。こうすることで県官(朝廷)は実(実物。実利)を失わず、商賈(商人)は貿利(または「侔利」。暴利を指します)を得られなくなります。これを平準といいます。
平準によって民は職を失わなくなり、均輸によって民は労逸が均一になりました。」
後半に書かれている「平準法」は武帝元封元年(前110年)に施行される、物価を調整するための法令です。
これに対して本年施行された「均輸法」は物資を均等に分布させるための法令です。胡三省注は「その土地で豊富な物をその土地の時価で買い取り、官が他の場所で売ることで、輸送が便利になり、官にも利益が生まれた」と書いています。
均輸法によって各地の郡国に置かれた均輸官は、その土地で豊富に採れる物資を買い取り、不足している地域に運んで売りました。こうして各地から京師に物資を集めるという無駄を省き、均等に各地に物資を行き届かせようとしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
白金武帝元狩四年119年参照)の価値が下がり始め、民が貴重な物としなくなったため、白金三品を廃止しました。
 
朝廷は各地の郡国が鋳銭(貨幣の鋳造)することを全て禁止し、上林三官だけに鋳銭を命じました。当時流通していた貨幣は五銖銭なので、「三官五銖銭」と呼ばれます。
 
朝廷は天下に命じて三官銭以外は流通させないようにしました。
この後、民の貨幣鋳造は減少していきました。貨幣を造るためにかかる費用が利益に合わなくなったためです。真工(加工が巧妙な者)や大姦だけが貨幣を私造し続けました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、上林苑は水衡都尉が管理しており、属官に上林、均輸、鍾官、辨銅令がいました。上林三官はこの三令(均輸、鍾官、辨銅令)ではないかとしています。
 
以下、水衡都尉に関して『漢書百官公卿表上』から注釈も併せて抜粋します。
水衡都尉は武帝元鼎二年(本年)に置かれました。
かつては山林の官を「衡」といいました。池苑(苑には山林があります)を管理する官なので、「水衡」といいます。または、「衡」は「平」と同じ意味で、税収を公平にすることを指すともいいます。
「都(「統率」の意味です)」は上林苑等の諸官を監督するという意味で、卒徒による武事を管理することもあったので「尉(武官です)」といいました。合わせて「都尉」です。
水衡都尉は上林苑を管理し、五人の丞がいました。
その属官には上林、均輸、御羞、禁圃、輯濯、鍾官、技巧、六厩、辯銅(辨銅)の九官があり、それぞれ令と丞がいました。
「御羞」は複数の説があります。一つ目は藍田の地名とする説です。土地が肥沃だったため、この地から御物(皇帝が使う物)が納められました。「御羞」は「御宿」ともいいます。
二つ目は、「御羞」は「宜春苑」等と同じように苑の名だったとする説です。
三つ目は、「御宿」は藍田の地名ではなく、長安城南の御宿川を指すという説です。「羞」と「宿」の音が近いため、「御羞」ともよばれました。
「輯濯」は船官、「鍾官」は鋳銭を主管する官です。「辯銅」は銅の種類を分別する官です。
「六厩」は厩舎を管理する官で、天子の馬厩には未央、承華、騊駼、騎馬、輅軨、大厩の六カ所があり、それぞれ万を数える馬がいました。
但し、『百官公卿表上』は太僕の属官に大厩、未央、輅軨、騎馬、騊駼、承華を載せており、水衡都尉にも六厩技巧の官を載せています。顔師古は「六厩技巧」を一つの官として、「水衡都尉は『技巧の徒』を六厩(太僕管轄)に供給した」と解釈しています。但し、「技巧」と「六厩」は並列する官のはずなので、顔師古の解釈は無理があります。水衡都尉は帝室の財政を管理する官で、太僕は帝室を含む全国の馬を管理する官なので、職責に重複する部分があったのかもしれません。
九官の他にも衡官、水司空、都水、農倉があり、また甘泉上林、都水がありました。これら七官(六官の誤り)の長と丞も水衡都尉に属します。上林には八丞十二尉がおり、均輸には四丞、御羞には二丞、都水には三丞、禁圃には二尉、甘泉上林には四丞がいました。
成帝時代に技巧と六厩の官が省かれ、王莽が水衡都尉を「予虞」に改名しました。
以前は御羞、上林、衡官および鋳銭とも少府に属していました。
 
尚、『史記・平準書』『漢書・食貨志下』では張湯が死んだ二年後に三官銭が発行されています(『漢書武帝紀』と『資治通鑑』では、張湯は本年冬十一月に死にました)
 
 
 
次回に続きます。